野生動物の法獣医学と野生動物医学の現状【第7回】大都会ロンドンのど真ん中で感じる野生動物医学の息吹

持ちつ持たれつで創学したWAH

前回の記事で、ロンドン大学王立獣医科大学(Royal Veterinary College、以下RVC)の大学院とロンドン動物学会が共同で開講していた、野生動物医学専門職修士(MSc Wild Animal Health、以下WAH)課程についてお話すると書きました。

しかし、そもそもどうしてこの2つの機関が共同開講していたのでしょうか。

前提として、獣医学課程がある大学が提供する学部レベルの内容は、牛・馬や犬・猫などの動物における獣医学が中心となっています。他の大学と同様に、RVCでは、動物園・水族館の動物や野生動物のような非典型的な動物における獣医学まで教育する力は持っていなかったのです。

そこで、これらの動物について深く学びたい人は、代わりにロンドン動物学会での研修に参加していました。ロンドン動物学会は有名なロンドン動物園を有するため、学会による研修は一時的な話題にはなりますが、受講をしても職につながるような資格取得につながらないため、興味も長続きしなかったようです。70年代から80年代は、そういった研修事業が生まれては消えを繰り返す、試行錯誤の時代でした。

90年代に入ると動物園の経営が思わしくなくなり、起死回生の策が模索されはじめました。当時はサッチャー政権による競争的な環境が色濃く残っており、大学同士の差別化が求められていました。そこで、学生の求めを無下にできなくなったRVCが、学位授与機関であることを強みに、ロンドン動物園に共同開講を持ち掛けたのだと思われます。あるいはその反対であったかもしれません。経営難のロンドン動物学会にとって、高額な授業料は魅力的であったはずです。ともあれ、一方は資格が出せる、一方はノウハウがあるという相補的な関係は、1994年の世界初のWAHに結実したのです。

このように、両機関がお互いの強み・弱みを相補的に連携したことが成功につながったのでしょうが、地理的近接性もWAH創学の重要な要素であったはずです。

その近さを感じていただくために、地下鉄ベーカー街駅からロンドン動物園、そしてRVCへ至るまでの道のりをたどってみましょう。

ロンドン動物園からRVCまでの道

ベーカー街

ロンドン動物園はリージェンツ公園内にあり、最寄り駅は地下鉄ベーカー街駅です。駅から地上に出ると、駅の入口にシャーロック・ホームズの立像があります。ベーカー街は『シャーロック・ホームズの冒険』でホームズの探偵事務所がある街なのです。

法獣医学には死因の推理という側面もあるので、ひょっとしたら読者の方にはコナン・ドイルの探偵小説のファンもいるかもしれません。その場合は、ぜひホームズ詣でのついでにロンドン動物園の見学もしてみてください。近くのマダムタッソー蝋人形館も気になりますが、目的のリージェンツ公園は反対側なので、残念ながら後にしましょう。

写真1:地下鉄ベーカー街駅

ロンドン動物園

リージェンツ公園内を数百メートルほど北へ歩くと、北縁にロンドン動物園のゾウ舎の屋根が見えてきます(写真2)。

写真2:ロンドン動物園のゾウ舎の屋根

僕がWAHを修了してすぐに、アジアゾウ3頭はロンドン動物園のウイップスネード野生動物公園(ロンドンの西北約40キロメートル)に移動したため、ゾウ舎にはゾウはいません(写真3)。

写真3:象舎内のアジアゾウとその飼育担当者

ロンドン動物園は、近代動物園の祖とされています。明治時代に訪英団に加わった福沢諭吉が、ロンドン動物園の正式名称「Zoological Garden」の訳語として「動物園」という日本語を思いついたのはこの場所です。「動物学の園か、少し長いね。ならば、動物園にしよう!」というわけです。「Zoological Garden」を縮めた愛称が、動物園の一般名称「zoo」になったのは有名です。もちろん、「zoo」だけなら、さしもの福沢諭吉も「動物園」という訳語は作れなかったでしょう。昭和天皇がジャイアント・パンダをご覧になったのも、この動物園でした。

動物に興味がない方でも、ロンドン動物園の建物は楽しんでもらえます。ロンドン動物園で僕が好きだった建物は、映画『ハリーポッター』シリーズにも登場している爬虫類館です。そのシーンの撮影があった時期(2000年)に在学していたため、当時話題になったことを憶えています。

RVC

動物園を出たあとは、リージェンツ運河(写真4)に沿って北東へ1キロほど歩いて、目的地のRVCのカムデンキャンパスに向かいましょう。

写真4:ロンドン動物園に近接したリージェンツ運河

目的の古色蒼然たる建物はすぐにつきます。

写真は、修了間際にアメリカで起こったアメリカ同時多発テロ事件(9.11)に弔意を示して、正門のユニオンジャックが半旗になっていた状態を撮影したものです(写真5)。白黒コピーの写真なので、古い建物がより古く見えます。なお、カムデンから約20キロメートル北のホークスヘッドに近代的なキャンパスがありますので、ご安心ください。

写真5:RVCのカムデンキャンパス

カムデンキャンパスの正門にはRVCの校章もあり、その下方にはラテン語で「Venienti Occurrite Morbo」と記されていました。意味は「いちはやく、病気とむきあえ!」です。

前回の記事でお話した通り、WAHの具体的な教育はロンドン動物学会のロンドン動物園で行われます。学位を授与するRVCのモットーは、修了生全員にも継承されています。

人生で一番忙しい1年

WAHの課程のうち9カ月間は、講義と病院実習が設定されていました。講義と実習の内容は、各種動物の飼育・飼養学、栄養学、系統分類学、個体群生物学、保護遺伝学、野生動物利用学、倫理・福祉学、疫学、免疫学、感染・非感染病学、疾病調査学、看護学、予防学、麻酔学、外科学などです。

実習は、学部教育でおこなうようなお膳立て形式ではなく、動物園の病院業務を補助する形式でした(写真6~10)。なお、残りの3カ月は修士論文のための調査研究に充当されました。

写真6:ロンドン動物園動物病院での診療実習(上、下)

写真7:ウイップスネード野生動物公園動物病院での診療実習(不動化)(上、下)

写真8:ウイップスネード野生動物公園動物病院での診療実習(強制給餌)

写真9:ウイップスネード野生動物公園動物病院での診療実習(アザラシ類からの採血)

写真10:ヘビ類の開腹手術実習

提供されていた講義は約350コマあり、うち基礎・予防獣医学が約31%、病態獣医学が約40%(感染症が約30%、中毒等非感染症が約10%)、臨床獣医学が29%でした。対象となる動物は、魚類、両生・爬虫類、鳥類、哺乳類(サル類、海獣類、有袋類、ゾウ類、奇蹄類、偶蹄類、養鹿シカ類、家畜ラクダ、肉食獣等)、そして無脊椎動物です。これだけのことを叩きこまれれば、世界のどの現場でも、いちはやく病気と対峙する覚悟ができるでしょう。1年間という短い期間で、多様な動物の疾病の理論と技術を涵養(かんよう)する濃密な教育機会は他になく、忙しく充実した日々でした。

WAHの今

WAHは1994年に最初の修了生を送り出してから今年で30年になります。いまだに世界中から注目され、その勢いは衰えていません。

僕は2001年に修了した第6期生ですが、在学時に日本国籍をもつ人は4名だけで、寂しい思いをしたものでした。その後、日本人の入学者がなく心配でしたが、2023年9月に4人目の方が修了されました。そのままイギリスの獣医師免許の取得を決意し、国外で働いているようです。第1期生の1人であった日本人の方もアメリカで働いています。

一方の僕はというと、WAHを修了した4年後に、勤務先で野生医学の施設を約20年間運営することになります。次回はそのお話をしましょう。

最後となりますが、2024年6月7日に朝日カルチャーセンター新宿教室講座にて、オンライン講座「野生動物と人間社会:法獣医学の視点から」を行います。これまでの記事にも関わる内容ですので、ぜひご確認ください!

[参考文献]
・Sainsbury・A.Fox・M. T.・大平久子・河津理子・浅川満彦. 英国王立獣医学校およびロンドン動物園による野生動物医学コースの概要と参加者の印象について. 獣畜新報. 2001. 54, 801-812.
https://rakuno.repo.nii.ac.jp/records/5626
・浅川満彦. 一中年野生動物医学マスター誕生の日.酪農ジャーナル. 2003. 56 (3), 58-61.
https://rakuno.repo.nii.ac.jp/records/5575
・浅川満彦. 動物園の獣医師を目指す諸君へ-実践・実学のロンドン大学WAHのススメ. 生物の科学 遺伝. 2021. 75, 164-169.
https://rakuno.repo.nii.ac.jp/records/6653
・浅川満彦. 野生動物医学への挑戦―寄生虫・感染症・ワンヘルス. 東京大学出版会, 2021, p. 196.
https://www.utp.or.jp/book/b10032216.html

【執筆】
浅川満彦(あさかわ・みつひこ)
1959年山梨県生まれ。酪農学園大学教授、獣医師、博士(獣医学)。日本野生動物医学会認定専門医。野生動物の死と向き合うF・VETSの会代表。おもな研究テーマは、獣医学領域における寄生虫病と他感染症、野生動物医学。主著(近刊)に『野生動物医学への挑戦 ―寄生虫・感染症・ワンヘルス』(東京大学出版会)、『野生動物の法獣医学』(地人書館)、『図説 世界の吸血動物』(監修、グラフィック社)、『野生動物のロードキル』(分担執筆、東京大学出版会)など。