日本発祥の縁起物「招き猫」の昔と今

日本国内のみならず、中国をはじめとする様々な国で人気の招き猫。西欧諸国でもラッキーキャットと呼ばれ親しまれています。中華料理屋の玄関に堂々と鎮座していることも多いため、中国発祥と勘違いする西欧人も少なくないようです。

しかし、招き猫の発祥地が日本であることは揺るぎない事実です。そして、この長い歴史を持つ招き猫は、今なお新しい形で進化し、その魅力を広げ続けています。

本記事では、世界中で愛される招き猫について、その興味深い誕生秘話と、近年見られる新たな進化の形をご紹介します。

観音様の眷属、豪徳寺の招福猫児(まねきねこ)

豪徳寺

住所:東京都世田谷区豪徳寺2-24-7

写真:招福猫児
写真:豪徳寺招福殿

招福猫児(まねきねこ)の由来

豪徳寺がまだ貧しい寺だったころのお話です。和尚は、2、3人の修行僧を預かって生計を立てていました。和尚は猫が大好きで、自分の食事を分け与え、まるで自分の子供のように可愛がっていました。

ある日、和尚は猫にこう話しかけました。

「私が大切に育てている恩を感じているのならば、何か幸運を招きなさい。」

その数ヶ月後のこと。鷹狩りの帰りらしい武士が5、6人、馬から降りて寺に入ってきました。武士たちは和尚に話しかけました。

「われらが寺の前を通り過ぎようとすると、門前にいた猫がわれらを見て手を上げ、仕切りに招く様子があまりに訝しい様子であった。そのため、寺に訪ね入ってみた。しばらく休息させてほしい。」

和尚は急いで奥へ案内し、お茶を用意しました。すると、たちまち空が曇り、雷を伴う夕立になりました。和尚が静かに仏教の教えを説いていると、武士たちは大変喜び、この寺を大切に思うようになりました。

武士の中の1人が言いました。

「私は江州彦根の城主、井伊掃部頭直孝である。猫に招き入れられて雨をしのぐことができ、和尚の御説法を拝聴できたのは、仏のお導きに違いない。これから、さらに親密に頼らせてほしい。」

そう言って、武士たちは寺を後にしました。

これがきっかけとなり、豪徳寺は井伊家の寺院となりました。多くの田畑を寄付され、大きな寺院へ発展していきます。これらはすべて猫の恩が幸運を招き、寄進の効果によるものだと言われ、人々から「猫寺」と呼ばれるようになりました。和尚は後に猫の墓を建てて、深く冥福を祈りました。そして、この猫の姿を模して作られた「招福猫児(まねきねこ)」を祀れば、幸運を呼び、家内安全、商売繁盛、願いごとが叶うと言われ、広く知られるようになったのです。

この言い伝えは、豪徳寺がまだ弘徳院と呼ばれていた時代に起こったとされています。「新修世田谷区史上巻」では和尚の名前を天極秀道としていますが、「東京の歴史」では雪岺としています。なお、どちらの文献でも、猫の名前は「たま」とされています。「東京府荏原郡誌」や「甲州街道の今昔」には猫塚についての記述がみられます。「日本伝説の旅(上)」によれば、天正年間(1573~1591年)に猫塚が建てられたそうです。

世田谷の「区議会だより」に掲載された「和尚さんの猫が殿を招く」という記事によれば、寛永10年(1633年)に猫が幸運を招いたと評判になり、寺の門前に市ができるほど賑わったとあります。これは、ちょうど豪徳寺を含む世田谷の地域が彦根藩の領地となった年と一致しています。

豪徳寺の招き猫信仰の発展

現在、豪徳寺で販売されている招福猫児(まねきねこ)は、小判を持たないシンプルな白猫で、境内で購入することができます。昔は木彫りや今戸焼の招き猫が売られていて、特に花柳界など、飲食店や芸者さんたちの間で人気があったようです。木彫り作家の風天かいち氏は、昭和20年代に豪徳寺の宮大工だった父と一緒に境内に住み、木彫りの招き猫を売っていたようです。

現在、招福殿には観音様が祀られており、その眷属(けんぞく:従者)として招福猫児(まねきねこ)も一緒に祀られています。そのため、時々「猫観音」と呼ばれることがありますが、本尊はあくまでも通常の観音様です。招福殿の脇には、たくさんの招き猫が並んでいて、参拝に来た人々を驚かせます。昭和48年(1973年)頃までは地面に並べられていましたが、その後、三段の棚に並べられるようになりました。過去には、招き猫が描かれた大きな絵馬が奉納されることもあったそうです。

写真:奉納されたたくさんの招き猫

招き猫伝説の真偽と現代の姿

猫の墓は、少なくとも「新修世田谷区史」が出版された昭和中期頃までは残っていましたが、現在は存在していません。猫塚の墓石を削って得た粉を店の前に撒くと、お客さんが集まるご利益があるという噂が立ったため、すでに失われてしまったようです。しかし、「招福猫児(まねきねこ)霊位」と書かれた位牌は今も残っているそうです。

ただし、この招福猫児の伝説が創作だと考える研究者もいます。「世田谷の詩歌・歌謡・伝説」によると、豪徳寺の檀家たちが参拝客を増やすために宣伝用に作り出したものだと結論づけています。江戸時代の有名な資料(江戸名所図会や新編武蔵風土記稿など)に豪徳寺の紹介はありますが、猫の伝説に触れた書物は見つかっていません。筆者の知る限り、大正13年(1924年)発行の「荏原郡誌」が最も古い記録です。明治維新によって井伊家の庇護がなくなったため、創作された可能性も十分に考えられます。

しかし、江戸時代の記述がないというだけで創作だと結論づけるのは、根拠が十分とは言えません。広く知られるようになったのが明治期以降だった可能性もあります。いずれにせよ、寺院として積極的に猫の伝承を広めるようになったのは、後ろ盾を失った明治期以降なのかもしれません。

実は、猫が井伊直孝を招いたころ、弘徳院(豪徳寺の昔の名前)は吉良家の寺院でした。弘徳院は世田谷城跡の中にあり、そこはかつて吉良氏が住んでいた場所だったことからも、結びつきの強さがうかがえます。しかし天正18年(1590年)に吉良家が没落し、弘徳院はその後ろ盾を失っていました。そこへ猫の招きによって運気を回復させることができたのです。二度にわたる危機を猫のご縁で乗り越え、寺院の格を高めてきたことは、まさに猫のご利益と言えるでしょう。

この招福猫児は、彦根市のゆるキャラ「ひこにゃん」のモデルになりました。井伊直孝が彦根藩の2代目当主だったことから、縁のある招福猫児が選ばれたのです。彦根市では、直孝を「招き猫に招かれた最初の人」としています。

現在の豪徳寺は、敷地内のいたるところに招き猫へのこだわりが見られ、その感謝の気持ちが伝わってきます。気づきにくい細かい部分もたくさんありますが、特に三重塔に注目してみてください。実は、この塔の中に招福猫児が隠されているのです。いったい何体見つけられるでしょうか?このあとにヒントとなる写真を載せておきますので、ぜひ見つけ出してご利益を得てくださいね。

写真:三重塔
写真:塔に隠れている招き猫たち

宮若追い出し猫

西福寺

住所:福岡県宗像市野坂1859

写真:西福寺

宮若追い出し猫の由来

ある春の夕暮れ時、1人の旅する僧侶が一晩の宿を求めてやってきました。破れた僧衣を肩までまくり上げ、杖の音を荒々しく鳴らしながら山門をくぐり、銀杏の落ち葉を踏みしめる姿。鋭い目つき、額には三日月形の黒ずんだ傷、ボサボサの髭面、恐ろしげな表情から、戒律を破った僧侶に違いありません。和尚はそう感じましたが、深い山里の囲炉裏で暖をとらせ、温かい夕食を与えました。

しかし、3日過ぎても出発の気配がありません。2ヶ月経った頃には、わがもの顔の振る舞いをするようになり、時には近くの村で托鉢(たくはつ:食べ物をもらい歩くこと)をして、酒の匂いを漂わせ、酔っ払って千鳥足で歩く様子だったといいます。果てには村の未亡人との噂も広まり、住職や檀家たちは、本山や藩の役人の助けも借りて、この僧侶を追放することにしました。

厳しい冬が訪れると、和尚は風邪をこじらせ、その日の晩に医者から予断を許さない状況であると告げられました。すると、例の旅の僧侶が和尚の枕元にやってきて呪文を唱えたのです。途端に和尚は胸が押しつぶされるような感覚に襲われました。顔面蒼白となり、冷や汗を流して苦しみ、見るに耐えない状態になってしまいます。

「自分の命が危ない」と悟った和尚は、愛猫のタキを呼び寄せ、まるで人間に話すかのように語りかけました。「この旅の僧は只者ではない。私が死んだ後はこのお寺を守ってくれ。」タキは大きく目を見開き、ニャンと鳴いて答えると、真っ暗闇の中に消えていきました。

その3日後の夜、意識がもうろうとする中、和尚は大きな物音を聞きました。何かが倒れる音、本堂の屋根裏からする耳をつんざくような騒音、まるで地獄に落ちていくかのような大きな揺れ、地面が割れるような轟音…

ふと、和尚の意識の中にタキの血まみれの姿が浮かびました。すると、和尚の意識ははっきりとし始め、朝日が顔を照らすのを感じました。病み上がりで疲れた体を起こすと、寺院の使用人が慌てて駆け込んできました。

「和尚様、お寺の中も外もかみ殺された猫の死体でいっぱいです!」

本堂の屋根裏を覗いてみると、そこには息絶えたタキの姿があり、その傍らには何百年も生きてきたかのような大きなネズミがいました。激しい戦いを物語るかのように、両者とも全身血まみれで赤茶けていました。

それ以来、例の旅の僧侶の姿も見えなくなり、和尚も日に日に健康を取り戻していきました。和尚と村人たちは亡くなった猫たちを哀れに思い、お墓を建てて、いつまでも大切に供養しました。

猫塚公園

住所:福岡県山宮市山口

現在、西福寺は福岡県宗像市に移転し宮若市ではなくなりましたが、西福寺のあった土地は平成14年に猫塚公園として整備され、今でも手厚く供養されています。

写真:猫塚公園

2つの顔を持つ追い出し猫

この民話が元となり、災いを追い出し、福を招く縁起物として「追い出し猫」が作られました。

特徴的なのは、怒った顔とにこやか笑顔という2つの顔を持っていることです。ほうきを持った怒った顔で睨みをきかせ、災いを追い出します。裏側のにこやかな笑顔は福を招き入れてくれるそうです。基本的には、怒った顔を前に置き、災いを追い出して、ご利益をもたらしてくれることを願います。

招き猫には自身の好きなお願いごとをシールで貼れるようになっており、様々な厄を払い、ご利益が得られます。

宮若市の町おこしの一環として、商工会が中心となり、平成8年に販売開始されました。その翌年には追い出し猫振興会が設立され、平成10年にニッポン全国むらおこし展特産品コンテストで全国商工会連合会会長賞を受賞しています。

写真:ほうきをもった険しい顔の追い出し猫
写真:追い出し猫の裏は笑顔の招き猫となっている

宮若商工会には巨大な追い出し猫のモニュメントが建てられ、商工会を見守っています。近くに追い出し猫本舗もあり、ここで追い出し猫の招き猫を購入することもできます。

時代とともに進化する招き猫

招き猫は時代と共に姿かたちを変えながら、私たちの暮らしを助けてくれています。あなたも新しい招き猫のかたちを体験しに行ってみませんか?

[参考文献]
・東京都世田谷区、新修世田谷区史上巻、東京都世田谷区、東京、p.342-346/1396-1397、1962年
・樋口清之、東京の歴史、彌生書房、東京、p.74-77、1961年
・佐藤敏夫、世田谷の詩歌・歌謡・伝説、佐藤敏夫、東京、p.56-59/64/72、1976年
・武田静澄、日本伝説の旅(上)、社会思想研究会出版部、東京、p.182-183、1962年
・小松悦二、東京府荏原郡誌、東海新聞社出版部、東京、p.297-298、1924年
・石井正義、甲州街道の今昔、多摩郷土史研究會、東京、p.63-64、1932年
・桜井正信、和尚さんの猫が殿を招く(世田谷区議会事務局 世田谷区議会だよりNo.51)、東京、p.4、1976年

【執筆者】
岩崎永治(いわざき・えいじ)
1983年群馬県生まれ。博士(獣医学)。一般社団法人日本ペット栄養学会代議員。日本ペットフード株式会社研究開発第2部研究学術課所属。同社に就職後、イリノイ大学アニマルサイエンス学科へ2度にわたって留学、日本獣医生命科学大学大学院研究生を経て博士号を取得。専門は猫の栄養学。「かわいいだけじゃない猫」を伝えることを信条に掲げ、日本猫のルーツを探求している。〈和猫研究所〉を立ち上げ、SNSなどで各地の猫にまつわる情報を発信している。著書に『和猫のあしあと 東京の猫伝説をたどる』(緑書房)、『猫はなぜごはんに飽きるのか? 猫ごはん博士が教える「おいしさ」の秘密』(集英社)。2023年7月に「和猫研究所~獣医学博士による和猫の食・住・歴史の情報サイト~(https://www.wanekolab.com/)を開設。

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【編集協力】
いわさきはるか