現在、馬とふれあうことができる機会は日常的にはあまりありません。一方で、馬が農耕や移動手段などで使われていた時代、日本人はどのように馬とかかわってきたのでしょうか。今より馬が身近に存在していたことは間違いないでしょう。
馬が日本人の生活にどのようにかかわってきたのか、そしてこれからの馬とのかかわり方について考えてみましょう。
馬の魅力と活用
みなさんは、馬を近くで見たことがあるでしょうか? 機会があれば、頭から尻尾までよく見てみてください。
長い馬の顔には、大きな目、よく動く耳、柔らかい鼻先やしっかりとした歯のある口があります。
馬の目は優しそうで安らぎや癒しの源になる、そう感じて馬に惹かれる人も少なくありません。350度の広い視野と、自在に動く耳で常に周囲を見聞きしています。鼻も匂いをよく感じとっていることでしょう。しっかりした歯は、草を巧みに噛み切り栄養とするために必要です。
顔に続いて印象的なのは脚です。馬は脚が速いことで知られていますが、角も牙もない馬は、目と耳であたりを油断なく見張り、危険を感じたらすばやく動いて危機を脱してきたのでした。その速さを生み出すのは長い脚であり、脚に見合った身体です。逞しい身体とその力強い動きも馬の大きな魅力の一つです。
このような馬の身体は、人が馬を飼うようになる前の長い野生での暮らしで育まれました。一瞬のうちに危険を察し、体を動かす知力も同時に育まれています。

人は馬を家畜として飼うことで、野生が育んだ馬の力を活用することができました。馬の身体には速い走りだけではなく、物を運んだり引っ張ったりする力も備わっています。体重1トンの重種の馬はもちろん、小柄なポニーも力仕事ができました。
しかし、野生の馬を捕まえ、すぐに思い通りの仕事をさせることはできません。速さで人を魅了するサラブレッドは、両親から受け継いだ血統が大事といいますが、仔馬の時に母から離し、人が育成しなければレースの舞台にあがれません。
馬を家畜とするまでには、幾世代もの人の努力があったと考えられています。
馬と日本人の歴史
今から約1,800年前、女王卑弥呼がいたとされる3世紀の日本には、馬はまだいなかったようです。『三国志』「魏志倭人伝」によると、邪馬台国には馬も牛もトラもヒョウも羊もいませんでした。
古墳時代には、多彩な文化と技術がもたらされましたが、馬(と馬を養い・育み・使う技能を身に着けた人々)が日本に姿を見せたのもこの時代のことです。大阪府四条畷(しじょうなわて)市の蔀部遺跡(しとみべいせき)は日本で馬が飼われ始めた約1,500年前の牧場を今に伝えています。

古墳に納められた馬具や馬の埴輪から、馬の活用が支配層を中心に広がっていったことが窺われます。馬は、君臨する支配層、ひいては貴い神々の乗り物と考えられていました。願い事を絵馬に記して奉納する文化も、そうした考え方の名残かもしれません。『日本書紀』(720年)には、埴輪馬を赤い駿馬に変えて夜道を走る不思議な貴人の姿が記されていますが、庶民の荷物運びに馬が使われていたことも書き残されています。そこには「母馬が人に牽かれ、荷物を背に道を行く。一緒に来た仔馬は母の背中を飛び越えていた」とあります。働く母馬に仔馬が寄り添う姿は、室町時代の絵巻物にも描かれており、現代でも騎芸に母馬を使う時には仔馬を一緒に連れていくそうです。
奈良時代になると、東国(現在の関東など)の馬産地から馬が都にもたらされるようになります。東北地方で蝦夷(えみし)が生産した馬も評判となりましたが、蝦夷は優れた騎馬の戦士で、しばしば官軍を悩ませたといいます。
平安時代には、古式競馬が平安貴族の間で人気を呼びました。直線コースを二頭で競う古式競馬は、飛鳥時代に神事としとて始まったとのことです。一方、馬に乗って横行する人々が勢力を持ち、平将門の乱などを起こし、やがて来る「武者の世」の先駆けとなりました。武者の世には鎧兜に身をかためた騎馬武者が戦場を駈け廻って国を動かし、源平合戦などで英雄伝説と悲劇を数多く生みます。
鎌倉時代に入ると、流鏑馬などの騎芸が盛んに行われようになりましたが、蒙古襲来ではこれまでの騎馬武者の戦術の欠点も明らかになり、南北朝時代・室町時代・戦国時代と時代につれて徐々に戦法が変り、合戦の主力に徒歩の兵士が加わるようになります。

江戸時代の太平の世を迎えると、武士の間で馬を使った武術がやや廃れたため、流鏑馬などの騎芸が復興しました。またオランダ商人を通じて、オランダ馬とペルシャ馬を輸入していたようです。ちなみに、安土桃山時代にはキリスト教の宣教師が外国の馬を連れてきています。

武士の馬が廃れたかに見える一方、馬産と馬を使った運送が盛んになり、商業や交通の発達を促しました。庶民が仕事で使う馬の安全祈願や供養のために、馬頭観音の石碑などが多く建てられました。ここで使われた馬は古墳時代以来の日本在来馬で、日本人と同じく小柄でがっしりした働き者です。

やがて、江戸時代の末から明治時代の初めにかけて新しい西洋式の馬文化がもたらされました。開港とともに横浜で近代競馬が始まり、西洋式の騎兵戦法も導入されました。馬車が日本で初めて使われたのも、蹄鉄が普及するのもこの時期です。
明治時代の富国強兵の国策が西洋から来た馬を重んじたため、日本在来馬と和式古流馬術・日本古来の馬のとり扱い方法などは、急速に衰えてしまいます。日本在来馬にとってかわった馬にはまだまだ活躍の場がありましたが、明治・大正を経て昭和ともなると、そのチャンスは減っていきます。軍隊で馬をたくさん使役していましたが、戦争中国外で軍隊に使われた馬数十万頭は、ほとんど帰ってこられませんでした。
戦後、1950年ごろからは馬を使うことがほとんどなくなり、人と馬とのかかわりは、ほぼ乗馬と競馬に限られるようになってしまいました。
おわりに
こうして馬は減ってしまいましたが、馬に親しみを感じ、好意をいだく人々が絶えることはありません。それは、馬が生まれながらに持っている目や脚、優しさや賢さ、逞しさに基づく魅力とともに、長い歴史の中で武者ならば文字通り生死を、庶民では暮らしと仕事をともにしてきた馬との絆が、私たちの心の奥底に遺っているからではないでしょうか。
21世紀を迎えると、乗馬と競馬に加え、動物介在療法の一つとしてホースセラピーの試みがひろまってきました。「盲導馬」という試みもあります。大規模な自然災害時で小回りの利く馬の活躍が期待されるということもありました。わが国だけでも1500年以上の歴史のある馬と人との歩みをふりかえりながら、新たな人馬のかかわり方はさらに新しい蹄跡を刻んでいくことでしょう。
【執筆】
村井文彦(むらい・ふみひこ)
1957年東京都新宿区生まれ。馬の博物館元学芸部長。公益財団法人馬事文化財団で馬と文化にかかわる活動に従事し、馬の博物館・JRA競馬博物館で学芸員を勤める。専門は「人馬一体の日本史」江戸時代を中心に古今東西、広く人と馬のかかわりの研究を目指す。著書に『スコットランド文化事典』(分担執筆、原書房)、『歴史学事典』(分担執筆、弘文堂)、『日本生活史辞典』(分担執筆、吉川弘文館)がある。特技は紙切。