猫と暮らし、文を書く【第12回】猫の流儀

アトムの冒険

珍しく窓の外に雪がちらついている。
去年の夏はあんなにも暑くて、もう冬は来ないかと思っていたのがちゃんと来て、ちゃんと寒い。もう立春は過ぎたから、春も寒いというべきか。

寒い窓辺に全員がうちそろい、猫たちが熱心に雪を見ている。ひらひら落ちる白いものを目で追っては、首がもげそうに上下している。横浜ではめったに雪が降らない。

それでもいつだったかの冬、20センチほど積もり、当時、やんちゃ盛りの5才ぐらいだったアトム(白キジ柄・♂)が勇んで外へ飛び出したことがあった。とたんに胸まで雪に埋まって目はまんまる、しばし静止。思い直して一歩、二歩と、前に進むも、いちいち胸まで埋まる。さらに二、三歩行ったところで引き返してきた時の顔といったら! なんとも可笑しくて可愛くて忘れられない。その顔のまま、ブルブルっと雪を振り飛ばし、果敢にもまた出て行ったが、今度は三歩で戻ってきた。年嵩の猫たち―窓辺で見守っていた―のアトムを見る目がちょっと変わったのは、その時からだ。「チビの若造」から、「怖いもの知らずの冒険者」へ。一目置かれるようになって今もそこはアトムの定位置になっている。雪の外へ飛び出す機会はあれからもうないのだけど。

アトム(左)とチッチ(右)

今の今を生きる動物たち

そこへいくと、犬たちは大したものだ。雪深い原野でそりを引いたりするのだから。
寒さに強く、辛抱強く、厳しい訓練にも耐え、勤勉に走る、走る―と、そんなふうに思っていたら、犬ぞりの大きなメリットは、犬が見えないものを見ないところにある、と探検家の角幡唯介さんがその著書(『極夜行』、文藝春秋、2018年)に書いていた。

犬に限らず、動物は幻覚を見ない。
太陽が上らない極夜の下、360度果てなく広がる雪原を何時間も何日も走りに走っても、犬が道を見失うことはないのだそうだ。ところが操縦をする人のほうはそうじゃない。暗黒世界のシミ一つない一面の白のなかで自分の居場所を見失い、あっけなく度を失ってしまう。埋没の恐怖と不安から生まれる幻覚を見て、幻聴を聞けば、地図もコンパスも役に立たない。ありえない時、ありえない場所で、ありえない方角へ、人が闇雲にそりを駆ろうとするのを押しとどめ、正しい道を示すのが犬の役目なのだという。

ありもしないものを見ない。
聞こえもしないものを聞かない。
過去を思わず未来を待たず、今の今を生きる。

なるほど。
うちの猫たちが北極で猫ぞりを引いたり私がそれに乗ったり、そんなことはないだろうが、なるほど、と腑に落ちる。

流儀を借りる

真夜中に起きていた猫が動きを止め、ふと、一点を見つめることがある。ヒーターで温まった部屋のすみや、階段の踊り場、ソファに重ねた毛布の上。凝視する先に目をやっても、そこにはもちろん誰もいない。が、私はつい、そっと声をかけてしまう。
「チッチ、そこにいるの?」
「みーみなの?」
「コタロ?」

ユキ(左)とみーみ(右)
コタロ(左)、くーちゃん(真ん中)、マシロ(右)

お気に入りだった場所から亡き猫が消えてしまわないようにそっと、名前を呼んでしまう。うちの猫たちを可愛がってくれた父母がそこにいるのかとも思い背筋を伸ばす。懐かしさで胸がいっぱいになる。
この時、私は、スピリチュアル(霊的な)感能力の全然ない自分の目よりも猫の目を信頼している。
ものの見方や感じ方、考え方から暮らし方一つにも、他人には他人の流儀がある。
猫には猫の流儀がある。
猫は私の流儀に関知しないが、猫と暮らすということは、猫の流儀を借りるということだ。
私のそれとはずいぶん違う猫の流儀を借りる時、私を形作る枠は柔らかく広がる。猫という愛すべき他者の視点を得て、視野がクリアにぐっと豊かになるような気がするのだ。

きなこ
ユキ(上)、アトム(真ん中)、チッチ(下)
ビビ

【執筆】
岡田貴久子(おかだ・きくこ)
1954年生まれ。同志社大学英文学科卒業。『ブンさんの海』で毎日童話新人賞優秀賞を受賞。『うみうります』と改題し、白泉社より刊行。作品に『ベビーシッターはアヒル!?』(ポプラ社)『怪盗クロネコ団』シリーズ、『宇宙スパイウサギ大作戦』シリーズ(以上理論社)『バーバー・ルーナのお客さま』シリーズ(偕成社)など多数。『飛ぶ教室』(光村図書出版)でヤングアダルト書評を隔号で担当。神奈川県在住。