虫の目線で季節を見る【第6回】清流の中で春を待つ「生きている化石」ムカシトンボ

日本には「生きている化石」と呼ばれる世界的にも珍しいトンボがいます。それがムカシトンボです。

春の渓流を飛ぶ「生きている化石」ムカシトンボ

ムカシトンボの祖先は、化石の記録によれば約1億数千万年前のジュラ紀に出現したとされ、その形態をほとんど変えずに現代まで生き延びてきました。つまり、恐竜が闊歩していた時代とほぼ同じ姿のまま、今も飛び続けているのです。これが「生きている化石」と呼ばれる所以です。

化石として60種以上のムカシトンボ類が確認されていますが、現存するのは日本、ヒマラヤ地方、中国の一部に分布するわずか3〜4種のみです。現在、世界のトンボは約6,000種いるといわれているため、ムカシトンボがいかに貴重な存在であるかがわかります。

ムカシトンボの生活史

日本のムカシトンボが生息するのは、緑豊かな山地を流れる渓流です。

ムカシトンボのすむ緑豊かな山間部の源流域

ムカシトンボの幼虫(ヤゴ)は、渓流の冷たい水の中で石につかまって暮らしています。
その体はやや平たく、腹面がすこし凹んでいて、水中の石にフィットするような形をしています。
幼虫は、石の表面を歩きまわり水生昆虫などを捕食して育ちますが、成虫になるまでに南日本でも5〜6年、北日本では7〜8年かかるといいます。一般的にトンボの幼虫期間は1〜3年ほどですから、これはかなり特殊な生態と言えるでしょう。

ムカシトンボの幼虫 左はまだ小さな幼虫で、ツートーンカラーが特徴 右は終齢幼虫

数年間で14回ほどの脱皮を経て、十分に成長した幼虫は2月から3月にかけて川から這い上がり、岸辺の落葉や枯木、石の下に隠れて約1カ月を過ごします。これは水中生活から陸上生活へと順応するための期間と考えられており、いよいよ羽化が近づくと、成虫の体色が透けて見えるようになります。

そして、4月ごろに幼虫は朝のうちに隠れ家から出て、付近の植物や岩に登り、羽化を始めます。羽化したばかりのムカシトンボは白っぽく、頭部や胸部に長く柔らかな毛が生えているところが特に目を引きます。

羽化中のムカシトンボ 白い体と頭部や胸部の長い毛が目立つ

羽化が終わる頃には体色は黒っぽくなり、やがて大空へと飛び立ちます。

羽化を終えて飛び立つムカシトンボ 後には抜け殻だけが残る

羽化開始から飛び立つまでには5〜6時間かかることが多く、これは通常30分〜3時間ほどで終わる他のトンボの羽化と比べると異例の長さです。春の山間部という低温環境も影響しているのでしょう。中には翌日まで飛び立たない個体もいます。

なわばりと交尾

成虫になったばかりのムカシトンボは、まだ性的に未成熟で、繁殖に参加できません。10日〜2週間ほどの間は、渓流や林道の上空を高速で飛びまわり、小さな昆虫を空中で捕食して栄養を蓄えます。獲物の多くはハエ目やカゲロウ目、ハチ目などの小昆虫ですが、ときには自分と同じくらいの大きさのカワトンボを捕食することもあります。

こうして十分に栄養をとって成熟したムカシトンボは、繁殖行動を開始します。オスは木漏れ日が差す渓流や林道沿いを低く飛びながら、メスを探します。特にウワバミソウやハナウド、ジャゴケなど、メスが産卵しそうな植物が生えている場所では、より念入りにゆっくりと飛ぶ姿が見られます。

メスを探して飛ぶムカシトンボのオス

気に入った場所ではホバリングをまじえて数メートルの範囲を巡回し、他のオスが侵入すると激しく追い払います。
やがてメスを見つけると、オスは飛びかかって捕らえ、腹部の先にある付属器でメスの頭部を挟んで連結し、上空へと飛び去ります。その後、木の枝に止まり、トンボ独特の「移精」という行動を経て交尾が成立します。交尾は、オスとメスがリング状になるトンボ類共通の姿勢で数時間にわたって行われ、その後、オスとメスはそれぞれ別々に飛び去ります。

リング状になって交尾するムカシトンボ 上(左)がオス

産卵と次世代の誕生

交尾を終えたメスはやがて渓流へと戻り、産卵場所を探します。岸辺や水面に突き出た石の周囲をゆっくりと飛び、産卵に適した植物やコケが見つかると着地して腹部をぎゅっと曲げ、産卵を始めます。

水辺に生えたハナウドの茎に産卵するムカシトンボのメス 鋭い産卵管が見える

産卵はメスの腹部の先にある産卵管を植物に突き刺し、卵をその組織内に埋め込むという方法で行われます。産卵行動は数分からときには数時間に及び、産卵後の植物には無数の小さな傷跡が残ります。

ムカシトンボが産卵した後のハナウドの茎 無数の産卵痕が見える

産みつけられた卵は、数週間から1カ月ほどで孵化します。孵化した幼虫は植物の中から出て川の中へと入り、また長い幼虫期間が始まるのです。こうしてムカシトンボは太古の時代からその命をつないできました。

終わりに

ムカシトンボは、日本の自然が育んできた貴重な生物であり、トンボの進化を知る上でも重要な種といえるでしょう。また、彼らが生息しているということは、その地域の自然環境が長年にわたって安定したものであることの証でもあります。しかし、近年の気候変動による少雨や干ばつ、台風をはじめとする自然災害の激甚化により、彼らの生息地も安全ではなくなりつつあります。
私たち人間が生まれる遥か昔から、この国で生きてきたムカシトンボ。彼らがいつまでも「生きている化石」でいられるよう、日本の自然を未来へと受け継いでいきたいものです。

【写真・文】
尾園 暁(おぞの・あきら)
昆虫写真家。1976年大阪府生まれ。近畿大学農学部、琉球大学大学院で昆虫学を学んだのち、昆虫写真家に。日本自然科学写真協会(SSP)、日本トンボ学会に所属。著書に『くらべてわかる トンボ』(山と渓谷社)『ぜんぶわかる! トンボ』(ポプラ社)『ハムシハンドブック』(文一総合出版)『ネイチャーガイド 日本のトンボ』(同上・共著)など。