うんと長生きする名前
動物病院の待合室で診察の順番を待っていたら、受付で「ひなたちゃん」が呼ばれた。しかし返事をする「ひなたちゃん」はおらず、「ひなたちゃん、ひなたちゃーん」と、コールを2度3度。さらに、「岡田さーん、岡田ひなたちゃーん」と呼ばれて、ようやく、うちの「ピン」だと気がついた。そのあいだ、病院嫌いの猫は、キャリーのなかで縮こまって、いないことになっていたのだが。
ピンはまだ目も開かない子猫のときに、九十九里の砂浜に捨てられていた。きょうだいと2匹、ひしゃげた段ボールのなかで砂まみれだった。娘のハンカチに包まれて、特急「踊り子」号でうちに来たピンは、きょうだいより少しだけからだが大きくて生きのびた。きょうだいは2日と生きられなかった。
「とびきりいい名前をつけてやらなきゃ」
と、娘は言った。
ずっと明るくあたたかいところにいて、うんと長生きするように。
「あんたは、ひなた、よ」
きっぱりと娘は言い、その日から猫は「ひなた」だったはずなのに、なぜ「ピン」になったのか。ひなた→ひーた→ピータ→ピーちゃん、というような変遷をたどったか、「ピン」と呼んだとき、たまたまいい声でお返事したからか、どうだったか――。わからない。が、本名で呼ばれるのは動物病院の待合室でだけではあったけれど、ピンは18年の生涯をぬくぬくと愛されて穏やかに閉じた。
名前には願いが込められている。元気であるように、幸運を掴むように、長生きできるように。それは親が最初に子にかけるまじないなのだ。まじないは言葉でできている。力ある言葉を選び、それを最強の組み合わせで連ね、一心に唱えれば天に届く。一生のうちに何度となく呼ばれる名前なら、繰り返されるほどにまじないの力は増し、神はいつかきっと願いを聞き届けてくれるだろう。名づけをするときの、その幸福な確信。だから夕方のニュースなど見ていて、犯罪の容疑者の名前がたとえば「翔太」だったり「のぞみ」だったりすると、切なくなる。この人にも親が願いを込めた輝かしい日があったのにと思う。
鉄の女にあやかった柴犬
以前、実家に子犬が来たときのことを思い出す。母の友人のブリーダーから貰い受けた由緒正しい柴犬の女の子で、まだまっくろな鼻づらとぺたんこの耳が愛らしかった。チビながら、唐草模様の風呂敷包みを背負わせたら似合いそうな、和の雰囲気も好ましい。
それなのに父は、
「このこの名前はマーガレットにする」
と、宣言したのだ。
家族一同、え? って目を見合わせる。
マーガレット?
どう見たって、「おマツ」か「花子」かって顔だよねえ?
そこで父は、マーガレット・サッチャーについて一席ぶった。当時、鉄の女と称された第71代英国首相の話だ。どれほど不屈の意志をもってマーガレットが疲弊したイギリス経済を立て直したか、フォークランド紛争においては「国際法が力の行使に打ち勝たねばならない」と果敢に譲歩を拒み、どれほど国民の支持を得たか――。話はやがて持論になり(父はエコノミストだった)熱くなり長くなり、私たちはもううんざりして、マーガレットでもキャサリンでもどうでもよかった。もとより、家族の言い分になど、はなから耳を貸さぬ昭和の頑固親父だった。
こうして唐草模様の似合う子犬は、マーガレットになって「鉄姫」と登録された。そして、鼻づらが白くなり三角耳がピンと立つ頃には「マギ子」になっていた。さすがの父も、動物病院で「マーガレットちゃん」と連呼されるのは気恥ずかしかったらしく譲歩して、マギーでもいいことになったのだった。
マギ子は家族総がかりで甘やかされて、結果、鉄の女どころか内弁慶の外地蔵、雷が鳴ると股尻尾でうちのなかに駆け込んだ。不屈とか果敢とか、幸いにも発揮する機会なく平穏に暮らし、すくすく育った気の良さを犬にも人にも愛された。
猫のひなたも、犬のマーガレットも、いまはそれぞれ小さな骨壺におさまって、うちのいっとう良い場所で静かに佇んでいる。骨壺のおもてには「愛猫ピンちゃん」「愛犬マギ子」とそれぞれ、書かれてある。
愛猫愛犬たちを従えるかたちで、父母の写真がまんなかにある。父の眉間には皺が一本刻まれており、その皺を深くして「マーガレット」について熱弁をふるった春の初め、そのとき父の着ていたセーターのダイヤ柄や胸に抱かれた子犬のきょとんと小首をかしげた顔までが、ありありと目に浮かぶ。そして幼い時分に親と別れ、戦争を生きのびた父の厳しかったろう人生を思う。もっとも、絶対的な家長権に基づいて家庭を運営していた父は、生前、親の人生に思いをめぐらせる隙など娘に与えなかったのだが。
父の位牌には本名だけが記されている。知らない名前で呼ばれたくない、と言っていたからだが、ごく簡単な漢字4文字、あっさり並んでいるのはまるで、小学校の学級会で机に置かれる名札のようだ。眉間の皺とギャップがあり、ちょっと可笑しい。
位牌をぬぐい、名前を読み上げてみる。
天に届くというまじないの力に、父の道中はいまも守られているのだと信じていたい。
【執筆】
岡田貴久子(おかだ・きくこ)
1954年生まれ。同志社大学英文学科卒業。『ブンさんの海』で毎日童話新人賞優秀賞を受賞。『うみうります』と改題し、白泉社より刊行。作品に『ベビーシッターはアヒル!?』(ポプラ社)『怪盗クロネコ団』シリーズ、『宇宙スパイウサギ大作戦』シリーズ(以上理論社)『バーバー・ルーナのお客さま』シリーズ(偕成社)など多数。『飛ぶ教室』(光村図書出版)でヤングアダルト書評を隔号で担当。神奈川県在住。