古文書からみる動物と日本人とのかかわり【第3回】日本人とトラとの関係は?

トラの現在

トラはアジア大陸に分布し、亜寒帯の中国北部やロシアなどや、熱帯から亜熱帯のインドやベトナム、マレーシア、インドネシアなどで生息しています。その数は減り続けており、現在は約4,500頭前後まで減少しました。IUCN(国際自然保護連合)のレッドリストでは、絶滅危惧種に認定されています。原因としては、毛皮や漢方薬の材料としての密猟や、森林伐採など生息環境の悪化などがあります。

今回は、トラと日本人とのかかわりの歴史をご紹介していきましょう。

トラの毛皮と日本人

現在、日本で動物園へ行くと、トラ(アムールトラ、スマトラトラ、ベンガルトラなど)を普通に見ることができます。しかし、動物園ができる以前、一般の人々が日本に生息していないトラを目にする機会は、ほとんどありませんでした。

図版1:上野動物園のスマトラトラ(2023年9月7日撮影)

日本人とトラとのかかわりで最も古い事例として挙げられるのは、膳臣巴提便(かしわでのおみはすひ)という人物です。天皇の命令で編さんされた最初の歴史書『日本書紀』によると、545(欽明天皇6)年に彼は朝鮮半島へ派遣され、同行した子どもがトラに襲われたので、そのトラを殺し、皮を剥いで帰国したと伝えられています。

トラの皮は当時、朝鮮半島や中国東北地方などから日本へもたらされました。715(霊亀元)年、政府に仕える下級役人たちは、元日に開催される重要な儀式を除き、馬具や太刀の飾りにトラやヒョウの皮などを用いることが禁止されました。その後、これらの皮を使用できるのは貴族層に限られていきました。

トラは古代中国において悪鬼を追い払うものと考えられ、日本でもトラの皮や骨・肉に護身や治病といった効能があると考えられました。10世紀末以降、トラの頭(頭骨)やサイの角は邪気を払うものとして、天皇の誕生時に枕元に置いたり、産湯に入れられたりしたようです。『紫式部日記』(源氏物語を書いた紫式部の日記)の後一条天皇が生まれ、産湯を浴びさせる儀式の場面では、「虎の頭」を運ぶ女官がいたことが記されています。

トラ狩りをした日本人

中世に入ると貴族層だけではなく、武士たちも武具の材料としてトラの皮を使うようになりました。トラの皮には、トラのような強さを誇るといった側面も期待されたようです。15世紀前半の約30年間、朝鮮から日本へ下賜されたトラの皮は少なくとも223枚あったことが、これまでの研究で明らかになりました。ある年には38頭ものトラが殺され、朝鮮半島の生態系に多大な影響を与えたのではないかと指摘されています。

戦国時代に入ると、九州豊後国(大分県)の大名・大友宗麟のもとへ中国船がゾウやトラを連れてきたと言われていますが、詳細は不明です。この頃トラの皮は、戦国大名同士の贈答品の一つとなり、珍重されていました。

天下統一を果たした豊臣秀吉は、晩年に朝鮮半島への出兵を命令しました。その際、秀吉は自身の病気養生のために、朝鮮へ向かった武将たちにトラ狩りを命じ、その頭・肉などを塩漬けにして送るよう指示を出しました。加藤清正のトラ退治が有名ですが、清正以外の武将たちもトラを捕獲し、秀吉へ献上しました。清正が捕らえたと伝わるトラの頭蓋骨は、現在、徳川美術館(愛知県名古屋市)に収蔵されています。

図版2:加藤清正の虎狩り(錦絵)、19世紀(出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム:https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-5382?locale=ja「加藤清正虎狩」歌川国芳筆、東京国立博物館所蔵)

江戸時代の「トラ」? の見世物

江戸幕府の初代将軍となった徳川家康へも、ベトナムからトラとゾウが交易品として進上されました。家康は寅年生まれで、彼をまつる日光東照宮には多数のトラの彫刻があります。この彫刻の中に、トラではなくヒョウと思われるものもありますが、これはこの頃ヒョウがトラのメスと考えられていたためです。

1830(文政13)年4月、名古屋大須で「トラ」の見世物が開催され、多くの人々で賑わいました。実はこの「トラ」は、1827(文政10)年末に朝鮮から日本にやってきたヒョウで、九州や大坂でも見世物となっていました。1860(万延元)年7月に日本に連れて来られたヒョウも、「トラ」と称して興行が行われました。

図版3:1860(万延元)年に江戸で見世物となったヒョウのチラシ(チラシでは「猛虎」と宣伝)、19世紀(出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ、「今昔未見生物猛虎之真図」を一部加工、東京都立中央図書館所蔵)

江戸時代の末期、1861(文久元)年になって、ようやく多くの人々が生きたトラを目にすることができたのです。

本物のトラを見た人々

オランダ人が日本へ持ち込んだトラは、10月に江戸麹町の福寿院(東京都新宿区にあった寺)の境内で見世物となりました。その後、松坂(三重県松阪市)、名古屋(愛知県名古屋市)、難波(大阪府大阪市)、古市(三重県伊勢市)、大垣(岐阜県大垣市)、岐阜(岐阜県岐阜市)、金沢(石川県金沢市)などで、多くの人々がトラを目の当たりにしました。

図版4:1861(文久元)年に江戸で見世物となったトラのチラシ、19世紀(出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ、「麹町十三丁目福寿院に而興行の虎」を一部加工、東京都立中央図書館所蔵)

この頃の動物の見世物は、今の移動動物園とは異なり、珍しい動物たちが持っている御利益(悪病払い・疫病除けなど)にあやかることができると考えられていました。動物たちを見たり、触れたりすることで御利益が得られると、たくさんの人々が集まりました。トラの場合は、一目見ると悪病にかかる心配が無くなるなどと言われていたようです。

1862(文久2)年閏8月に名古屋の若宮八幡宮境内で、トラ1頭とインコ10数種の見世物が催されました。尾張藩の学者・細野要斎が著した『感興漫筆』に、その様子が残されていました。その一部を紹介します。

  • トラの大きさはチラシによると、長さは約2.1メートル、背の高さは約1メートル、重さは約280キログラムあり。
  • トラの檻は、横幅は約2.7メートル、奥行は約1.2メートル、欄干(らんかん:柵のこと)は鉄製、檻の前に幕あり。
  • トラの檻の左右に、演説者が1人、養虎者(調教師)が1人いる。
  • トラの来歴などを演説している間、トラは檻の中を左右にずっと動きまわっているが、その後は疲れて横たわり、勢いはない。
  • 養虎者の言うことは良く聞いて、手を出したり、うなったり、座ったりする。
  • トラは食べものを少なく与えられていたので、肉が減って皮がたるんでいる。

大垣にやって来たトラ

1865(慶応元)年5月に美濃路の大垣宿俵町(岐阜県大垣市)で、トラ1頭とインコ10羽の見世物がありました。大垣藩の医者・江馬元益(活堂)がまとめた『近聞雑録』(岐阜県歴史資料館寄託・江馬寿美子家文書)という記録によると、5月5日から見世物が始まり、彼は初日にトラ見物に行っています。

元益は、トラの目が意外にはっきりと見えなかったと記しています。江戸時代の絵画に描かれるトラの目はネコをモデルに描かれており、ネコの瞳孔のように細長く描いている場合があります。トラの瞳孔は丸いので、初めて本物のトラを見て、思いのほか瞳孔が小さく見えづらかったのかもしれません。また、トラは足を傷めていて興行主は養生をさせたかったようですが、その後、岐阜へ移動し見世物となっていました。

図版5:1865(慶応元)年に大垣で見世物となったトラのチラシ、19世紀(出典:岐阜県歴史資料館寄託・江馬寿美子家文書「乍憚口演(瓦版 ウイスと申阿蘭陀人持渡リ候大虎)」)(掲載許可取得済・無断転載不可)

美濃路の起宿(愛知県一宮市)で脇本陣・船庄屋を勤めた人物が、大垣や岐阜にやってきたトラを素材に和歌を詠んでいました。日本へ連れてこられたトラは、イメージとは違って寂しそうに見えたのかもしれません(大意は筆者作成)。

「なか住し 国をはなれて ふす虎の 心や藪と いまはあるらん」
(大意:心落ち着き暮らしていた故郷を離れて、寝そべっているトラは、今となっては心だけが藪の中にあるのだろうか。)

「横浜も 又ふる里と かはりゆく ひと目うらみて 虎のほゆらん」
(大意:横浜も今となっては遠い昔の場所となるくらいに様々な場所へ移動し、トラを一目見ようと訪れては去っていく人々を嘆き悲しみ、トラは吠えているのだろうか。)

(出典:尾西市史編さん委員会編『尾西市史 別冊』尾西市、1992年、国立国会図書館デジタルコレクション:https://dl.ndl.go.jp/pid/9540905)(2024/07/12最終閲覧)

【執筆者】
中尾喜代美(なかお・きよみ)
愛知県生まれ。愛知大学文学部卒業、名古屋大学大学院文学研究科修了(歴史学修士)。愛知県内で自治体史編さん事業に携わり、その後、岐阜大学地域科学部地域資料・情報センターで、同大教育学部附属郷土博物館に所蔵された古文書の目録作成や史料紹介に従事。岐阜県内を中心に古文書講座や講演会を行う。現在は愛知大学綜合郷土研究所研究員。『岐阜大学教育学部郷土博物館収蔵史料目録』(1)~(10)・『岐阜大学地域科学部地域資料・情報センター 地域史料通信』創刊号~11号の編集・執筆。楠田哲士編著『神の鳥ライチョウの生態と保全』(緑書房)で「江戸時代のライチョウの捕獲と献上」を執筆。

[参考文献]
・WWFジャパン「これを読めばトラ博士?!絶滅危惧種トラの生態や亜種数は?」https://www.wwf.or.jp/activities/basicinfo/3566.html(2024/06/30最終閲覧)
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・『新日本古典文学大系12 続日本紀 一』岩波書店、1989年
・大形徹「本草書にみえる虎」(『人文学論集』14、1996年、大坂公立大学学術情報リポジトリ:https://doi.org/10.24729/00004597)(2024/07/12最終閲覧)
・紫式部著・宮崎莊平全訳注『新版 紫式部日記 全訳注』講談社、2023年(初出は2002年)
・山本利達「紫式部日記覚書―御加持・虎のかしら―」(『滋賀大学教育学部紀要 人文科学・社会科学・教育科学』30、1980年、滋賀大学学術情報リポジトリ:http://hdl.handle.net/10441/3476)(2024/07/12最終閲覧)
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・楠瀬慶太「虎皮考―日本古代・中世における虎皮の流通と消費に関する一考察」(『比較社会文化研究』25、2009年、九州大学附属図書館九大コレクション:https://doi.org/10.15017/4494691)(2024/07/12最終閲覧)
・磯野直秀『日本博物誌総合年表 索引・資料編』平凡社、2012年
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・須田慎太郎撮影・文『日光東照宮400年式年大祭記念 日光東照宮』集英社インターナショナル、2015年
・名古屋市博物館編『特別展 盛り場―祭り・見世物・大道芸―図録』名古屋市博物館、2002年
・川添裕『江戸の見世物』岩波書店、2000年
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・名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 第21巻 随筆編 第4(感興漫筆 下ノ1)』名古屋市教育委員会編、1961年
・中尾喜代美「ゾウを見に行ってきます!―慶応元年、岐阜の象興行―」(『地域史料通信』11、2020年、岐阜大学機関リポジトリ:http://hdl.handle.net/20.500.12099/79570)(2024/07/12最終閲覧)
・中尾喜代美「慶応元年(一八六五)のゾウ・トラの見世物興行―新出の史料紹介を中心に―」(『濃飛史艸』134、2023年)
・宮内庁三の丸尚蔵館編『虎・獅子・ライオン-日本美術に見る勇猛美のイメージ 三の丸尚蔵館展覧会図録No.51』宮内庁、2010年、https://shozokan.nich.go.jp/research/exhibition-catalogues/51torashishilion_fullpage.pdf(2024/07/12最終閲覧)
・一宮市尾西歴史民俗資料館編『秋季特別展 公儀御用の象、美濃路をゆく 一宮市尾西歴史民俗資料館 特別展図録 No.100』一宮市尾西歴史民俗資料館、2019年

【編集協力】
いわさきはるか