古文書からみる動物と日本人とのかかわり【第4回】京へ向かった!? 東海地域のウナギ

ニホンウナギの現在

ニホンウナギは淡水魚のイメージがありますが、外洋のマリアナ諸島西方海域で産卵し、日本近海へ移動し成長する回遊魚です。現在、その個体数は減少し、絶滅危惧種に認定されています。原因としては、過剰な消費や漁獲、生息域における環境の悪化などが挙げられます。

今回は、ウナギと日本人とのかかわりの歴史についてご紹介していきます。

古代・中世のウナギ

ウナギといえば「蒲焼き」がすぐ思い浮かび、現在では高級な料理の一つという認識かもしれません。しかし、現在のようなウナギの「蒲焼き」が登場したのは江戸時代以降のことです。

図版1:江戸前大蒲焼き店、19世紀(出典:国立国会図書館デジタルコレクション、鍬形蕙斎原画ほか『職人尽絵詞』第3軸、和田音五郎模写を一部加工)

縄文時代の遺跡からウナギの骨が出土していますので、古くからウナギは食用とされていました。その遺跡の分布が、日本海側に少なく太平洋側に集中していることから、当時の海流の動きとの関係が指摘されています。

奈良時代に作られた日本最古の歌集『万葉集』(巻16・3853)に、ウナギは夏やせに効能があることを読んだ和歌があります。『万葉集』編さんに関わった大伴家持が、生まれつき身体がやせていた吉田連老(きったのむらじおゆ)という友人へ送ったものです。吉田連老は医薬に関わる役人であり、からかいの意味が込められています。

ウナギについて記した古代・中世の古文書はわずかですが、琵琶湖を水源とする宇治川(上流部は瀬田川、下流部は淀川と呼称)のウナギについて、興味深い記述があります。12世紀末、宇治川に架けられた宇治橋(京都府宇治市)の橋脚の根本には、橋を守るため石組みが設置されていました。この石組みの保護と共に、石の間にもぐりこんでいるウナギを捕獲する漁民たちがいたことが確認されています。

宇治川で捕れたウナギは、15世紀の日記によると「宇治丸」と呼ばれ、鮓(すし:塩や飯で魚を発酵させたもの、いまの寿司とは異なる)として調理されていました。16世紀後半頃にまとめられた『大草家料理書』には、「宇治丸かばやきの事、丸にてあぶりて後に切也」とあります。これは今の蒲焼きとは異なり、ウナギは割かず丸ごと切って串にさし焼いたもので、味付けは醤油と酒や、山椒味噌を付けたようです。

江戸時代のウナギの産地

江戸時代に入るとウナギを割いて串を打ち焼く蒲焼きが登場し、徐々に人気を博していきました。17世紀中頃にまとめられた『毛吹草』という書物には、各地の名産品が取り上げられています。ウナギの産地として、洛中(京都府、宇治川)、遠江(静岡県、浜名湖)、近江(滋賀県、瀬田川)、信濃(長野県、諏訪湖)、若狭国(福井県、三方五胡)が確認できます。

図版2:瀬田のウナギ漁、18世紀(出典:国立国会図書館デジタルコレクション、平瀬徹斎編ほか『日本山海名物図会5巻』を一部加工)

17世紀末に刊行された『本朝食鑑』という書物には、ウナギが各地で捕れていることや、美味しいウナギのランキングが記されています。とくに近江国瀬田橋(滋賀県)の辺りで捕れるウナギが第1位で味は絶品とし、宇治川・淀川(京都府)や琵琶湖産(滋賀県)が第2位、諏訪湖産が第3位、鮓とするには宇治川のウナギが勝っているとあります。

また、京都生まれの本草学者・小野蘭山がまとめた『本草綱目啓蒙』(19世紀成立)にも、ウナギのランキングがまとめられています。『本朝食鑑』の内容と似ていますが、この頃の京都においては、瀬田川(滋賀県)で捕れるウナギと並んで、若狭産(福井県)のウナギが1番となっていました。2番目の産地に変化はありませんが、3番目として尾張国蟹江産(愛知県海部郡蟹江町)、美濃国池沼産(岐阜県南部)のウナギが登場します。

これまでの研究で、蒲焼きの登場によりウナギの人気が上昇し、消費量の増加から京都や大坂、江戸といった大都市へ、全国各地からウナギが運ばれていったことが指摘されています。その中でも、京都へ運ばれた東海地域のウナギを取り上げます。

京都へ輸送された東海地方のウナギ

ウナギの蒲焼きは、都市部で18世紀半ばから大流行したと言われています。この頃の京都では、新鮮な魚をさばいて提供する「生洲」(いけす)と呼称する料理屋が流行していました。生け簀を備えた「生洲」には新鮮な魚が必要で、ウナギを含めた大量の活魚が、周辺地域から京都へ運ばれていったと考えられています。

図版3:高瀬川の生洲、18世紀(出典:国立国会図書館デジタルコレクション、秋里籬島著ほか『都名所図会』を一部加工)

尾張国や美濃国などからのウナギ輸送は、1800年前後から急増し、新たな輸送ルートが開発されたと指摘する研究があります。ウナギ荷主は、ウナギを生きたまま京都へ運ぶため、途中で水につけたりしながら迅速かつ安く運ぶ必要がありました。本来、荷物は宿場(街道に設置された人や荷物の中継地)ごとに積み替えるのが原則でしたが、時間と費用がかさむので、ウナギの場合は抜け道を使い、積み替え回数も減らして運びました。そのため、飛ばされた宿場はウナギ荷主らを相手取り、訴訟を起こしていました。

この訴訟の和解のために作られた古文書が、美濃国池田郡八幡村(岐阜県揖斐郡池田町)の庄屋(村の取りまとめ役)を勤めた家に残されていました。1836(天保7)年8月の和解案は、ウナギが通らなかった宿場のうち、牧田・垂井・今須宿(岐阜県)に対して、ウナギ荷主側から金銭を支払うことで抜け道の使用を認可してもらうという内容でしたが、その後の結果は不明です。

図版4:京都へのウナギ輸送に関する訴訟の仲裁につき届書、19世紀(出典:岐阜大学教育学部附属郷土博物館所蔵・美濃国池田郡八幡村竹中家文書「乍恐口上書を以奉申上候」)

尾張国蟹江・美濃国池沼のウナギ

尾張国蟹江(愛知県海部郡蟹江町)のウナギは、『本草綱目啓蒙』に「海中ニテ漁ス」とあり、「海中」とは伊勢湾(愛知県と三重県にまたがる内海)を指します。尾張藩士の樋口好古がまとめた『尾張徇行記』(19世紀成立)によれば、蟹江村の海浜の干潟で捕れたウナギと、下之一色村(愛知県名古屋市)産のウナギも京都へ運ばれていました。当時の蟹江村や下之一色村は、伊勢湾の最奥部に近く、大小の河川が流れ込み淡水と海水が混じった汽水域と、河川から流出した土砂が積み重なり出来た干潟により、ウナギ漁をはじめとして漁業が盛んに行われていました。

美濃国南部は、木曽川・長良川・揖斐川という木曽三川の下流域で、池沼が多い低湿地が広がっていました。江戸時代の古文書によると、その中にあった下池(現在は水田となり消失)では、9~3月頃までウナギやコイ、フナを捕り、近江国大津(滋賀県大津市)まで売りに行っていたようです。1881(明治14)年作成の「多芸郡各町村略誌」という資料には、1年間で約5.6トンものウナギが下池で産出されたとあります。

図版5:ウナギが捕れた美濃国南部、19世紀(出典:岐阜県歴史資料館所蔵「細見美濃国絵図」を一部加工)

木曽三川の低湿地では、江戸時代に新田開発が進み、村の周りを堤防で囲む輪中が作られていきました。ただ木曽三川流域の山々の荒廃が進み、河川への土砂の流出が激しくなり、水害が多発します。そのため、輪中の堤防が切れて池(押堀)ができたり、輪中内の水を排水するための水路や、堀田が作られていきました。堀田とは、田地の一部の土を取り、その土を盛って田地の一部を高くしたもので、土を取られた後の田地は水路や池となり、ウナギやフナなどの漁場となりました。

尾張藩士・樋口好古がまとめた『濃州徇行記』(18世紀成立)によると、五町村(岐阜県海津市)という村には堀田が見られ、次のことが確認できます。

・農業(米作りなど)を本業としているが、水害で不作の年は、魚や鳥を捕って生業としている。
・昔から魚や鳥を捕って生活の助けとしているので、池や川にかかる雑税を払っている。大江川ではフナやナマズを捕ることは多く、コイは少ない。また、夏はウナギを多く捕る。
・捕った魚や鳥は、高須町(海津市)へ売り出して京都へ多く送っている。

もともとは災害時の対策として、ウナギなどを捕って生活の糧にしていましたが、ウナギ人気と共に、尾張・美濃国からも、ウナギが京都へ送られるようになっていったと考えられます。

[参考文献]
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・樋口好古著・平塚正雄編『濃州徇行記』一信社、1937年

【執筆】
中尾 喜代美(なかお・きよみ)
愛知県生まれ。愛知大学綜合郷土研究所研究員。愛知大学文学部卒業、名古屋大学大学院文学研究科修了(歴史学修士)。愛知県内で自治体史編さん事業に携わり、その後、岐阜大学地域科学部地域資料・情報センターで、同大教育学部附属郷土博物館に所蔵された古文書の目録作成や史料紹介に従事。岐阜県内を中心に古文書講座や講演会をおこなう。『岐阜大学教育学部郷土博物館収蔵史料目録』(1)~(10)・『岐阜大学地域科学部地域資料・情報センター 地域史料通信』創刊号~11号の編集・執筆。楠田哲士編著『神の鳥ライチョウの生態と保全』で「江戸時代のライチョウの捕獲と献上」を執筆。