猫の宝探し 新田猫絵

みなさんの宝物は何ですか?

すぐに思いつく方、あれやこれや悩んで一つに絞り切れない方もいるでしょう。思い入れのあるものや高価なもの、価値を見出すポイントも人それぞれで、宝物は? と聞くと、人となりが見えてくることもあるかもしれません。

そんな前置きはさておき、今回は昨年同様猫の日の特別企画です。私が所有する猫の宝物を紹介します。猫の宝物なんて、あまり耳にしたことがないかもしれません。私の人となりが垣間見えるでしょうか。
この記事が皆様の宝物のかけらになることを願って—さあ、宝探しに出かけましょう。

新田岩松の猫絵

新田猫絵 新田俊純

・所蔵:筆者所蔵
・作者:新田俊純(1829年7月8日~1894年3月15日)
・真贋不明

新田猫絵 新田道純

・所蔵:筆者所蔵
・作者:新田道純(1798年1月30日~1854年8月13日)
・真贋不明

猫絵とは

これは、新田義貞の子孫である岩松家のお殿様岩松温純、徳純、道純、俊純が4代に渡って描いた猫絵の一つです。「新田猫絵」、「八方睨みの猫」とも呼ばれます。

これが描かれた当時、養蚕は国内でも有数の産業でしたが、鼠害が悩みの種でした。養蚕農家にとって鼠害は深刻で、それゆえに猫が鼠番として飼育されていました。このような背景から、猫は養蚕農家から蚕の神様としてあがめられることもあったそうです。
新田猫絵も鼠除けの効果があると信仰され、霊験あらたかなお守りとして重宝されていました。例えば、掛け軸に仕立てられ、蚕を飼育している部屋に掛けられていたようです。

1790年代に入ると、猫絵の依頼が急増します。奥州や信州の蚕種売りからの猫絵の要望が多くあったようで、彼らが養蚕農家に猫絵を普及させた要因の一つと考えられています。

その当時の人気ぶりが窺えるようなエピソードがあります。
文化10年(1813年)の「信州御道中御画願人控」(新田文庫資料集Ⅰ)によると、猫絵の殿様として名を連ねた岩松俊純は、善光寺参拝のために信州を旅した時に町民農民から猫絵を求められ、たった1ヶ月で96枚もの猫絵を描いたそうです。
しかし、好評だった半面、贋作も多いことが知られています。また、18世紀後半には江戸や東国で民間宗教者、雑芸人として猫絵描きの職業が成り立っていたようです。嘉永・安政頃(1850年代頃)の随筆「真佐喜のかつら」には、「いやしげなる男がわずかな料金で鼠除け猫の絵を描いていた」とあります。また、斎藤月岑「武江年表」(1847年)の明和年間(1768~72年)には、「明和・安永(1768~81年)の頃、常州の雲友と名乗る者が鼠除けの絵を描くと町中を歩いていた。」とあります。さらに、太田南畝の「一話一言」巻二十五にも、「天明・寛政(1781~1801年)の頃に白仙という坊主がわずかな料金で猫を描き歩いた」という話があるようです。このような人気からか、いつしか猫絵だけではなく、鼠除けのお札も配られるようになったそうです。

鼠除けのお札 筆者所蔵
八海山尊神社 鼠除けのお札(使用済)
鼠除け札に使われていた新田猫印 筆者所蔵

この人気は、国内にとどまりません。江戸時代末期に西欧向けに蚕の卵の輸出が始まると、貿易船の中に鼠除けとして岩松氏の猫絵が持ち込まれることもあったようです。
明治維新後、岩松俊純は新田姓に復名し、男爵となりました。ヨーロッパでは男爵(バロン)が書いた猫絵として話題となり、猫絵は「バロンキャット」として人気があったようです。

なぜ描かれた?

新田岩松氏は猫絵を売ることで家計の足しにしていたようです。
新田岩松氏は足利と新田氏の血筋を引く名家で、参勤交代も1月1日に参列する家柄であるにもかかわらず、石高はわずか120石しかありませんでした。それほど家計に困窮していたようです。

殿さまが描いたというだけでは、これほど普及しません。実は、養蚕への鼠害が、新田家の怨霊によるものと考える俗信が背景にありました。新田氏ゆかりの埼玉県所沢市の薬王寺の「鼠薬師如来縁起」(埼玉叢書第3巻)によると、ネズミによる作物荒らしに悩まされた武蔵国の農民たちは、新田家の怨霊を鎮めることで、鼠除けの利益をもたらすことを期待していたようです。このような俗信を背景に、猫絵は上野、武蔵、下野、信濃の養蚕農民に鼠除けの利益があると歓迎され、猫絵の普及に一役買っていたようです。

宝物として

猫絵の価値は、宝飾や美術品としての絢爛な美しさではありません。描かれた当時、猫絵は鼠除けの役目を期待された日用品として飾られていました。常に蚕の傍にかけられていたので、生活の痕跡が染みついています。囲炉裏の煤で燻され変色し、農具が引っかかって破れ、時には蚕から出るゴミが飛んだかもしれません。営みを守り続けた傷は唯一無二の一点ものです。使い回されボロボロになり、役目を果たしたその姿にこそ、心打たれるものを感じませんか? 人と深く結びついた証を残した猫絵だからこそ、かけがえのない日常が宝物になるように感じさせてくれます。

ところで、次のようなことを問われたら、あなたはどう応えるでしょうか。

「10億円の宝物がもらえる代わりに、明日から目覚めることはありません。それでもあなたは宝物を手に取りますか?」

答えは決まっていますね。あなたの「明日」は、いくらお金を積まれても手放すことはできないくらい価値があるのです。

今回紹介した猫絵は私の所蔵品ですが、下記の博物館の常設展にて別の猫絵を見ることが可能です。昔の生活の名残を感じに出かけてみてはいかがでしょうか?
猫にまつわる宝物を巡る旅が皆さまの心に一粒の宝石を残すことを心より願っております。猫を知り、猫に思いを巡らす良い旅を。

・新田荘歴史資料館(群馬県太田市世良田町3113-9)
ホームページ:https://www.city.ota.gunma.jp/page/4193.html

・群馬県立歴史博物館(群馬県高崎市綿貫町992-1)
ホームページ:https://grekisi.pref.gunma.jp/

・日本絹の里(群馬県高崎市金古町888-1)
ホームページ:https://www.nippon-kinunosato.or.jp/

[参考文献]
・落合延孝著、『猫絵の殿 様領主のフォークロア』、吉川弘文館、東京、1996年
・藤原重雄著、『《日本史リブレット》079.史料としての猫絵』、山川出版社、東京、2014年
・東京農工大学科学博物館、企画展 『猫神様と養蚕展~やっぱり最後は猫頼み~』、東京農工大学科学博物館、東京、2020年

【執筆】
岩崎永治(いわざき・えいじ)
1983年群馬県生まれ。博士(獣医学)、一般社団法人日本ペット栄養学会代議員。日本ペットフード株式会社研究開発第2部研究学術課所属。同社に就職後、イリノイ大学アニマルサイエンス学科へ2度にわたって留学、日本獣医生命科学大学大学院研究生を経て博士号を取得。専門は猫の栄養学。「かわいいだけじゃない猫」を伝えることを信条に掲げ、日本猫のルーツを探求している。〈和猫研究所〉を立ち上げ、SNSなどで各地の猫にまつわる情報を発信している。著書に『和猫のあしあと 東京の猫伝説をたどる』(緑書房)、『猫はなぜごはんに飽きるのか? 猫ごはん博士が教える「おいしさ」の秘密』(集英社)。2023年7月に「和猫研究所~獣医学博士による和猫の食・住・歴史の情報サイト~」を開設。
X:@Jpn_Cat_Lab