覗き見! モンゴルの牧畜文化【後編】ヤギ・ヒツジの命を「いただきます」

日本には、食事前に手を合わせて「いただきます」と唱える習慣があります。

「いただきます」には仏教に由来する「命をいただきます」の意味がある、という教えを受けたことのある人も多いのではないでしょうか。私たちが口に運ぶものは、植物であっても動物であっても、すべて命あるものです。食べられる命を食べる命につなげるという「命の循環」への感謝の言葉が「いただきます」なのです。

モンゴルの遊牧民が食事の際に「いただきます」に類する言葉を唱えるのか、筆者は知りません。しかしながら、ヤギ・ヒツジを食べる過程で無駄を出さないようにする遊牧民の工夫は、言葉に依らない「いただきます」のように思われます。

今回の記事ではこのような視点で、遊牧民によるヤギ・ヒツジへの「いただきます」を紹介します。

血も骨も糞も無駄にしない工夫

遊牧民は徹底して無駄のないかたちで命を「いただく」ため、骨髄、血液、さらには糞まで無駄にしません。あらかじめ誤解のないように断っておくと、食べるのは前二者のみです。糞の利用方法は記事の後半で紹介します。

モンゴルの遊牧民は、基本的に肉食文化で暮らしています。27年ほど前に筆者がモンゴルを訪れた際は、「葉物は人ではなく虫が食べるものだ」という考えが強かったように思います。そのため当時の遊牧民は、野菜をほとんど口にしていなかったようです(現在はウランバートルを中心に、野菜・果実も食材として普及しているそうです)。

もともと遊牧民は、ヤギ・ヒツジなど何十頭もの家畜を養いながら草の海を移動するため、農耕民族のように定住しません(写真1)。苗を植えたり種を播いたりした植物が育つまで待っていては遊牧ができません。そんなわけで、土地に根ざした生活をする必要のある野菜は、遊牧民の食生活になじまなかったのでしょう。

写真1:ヤギ・ヒツジと川を渡っている様子

彼ら遊牧民の主な食材は、多頭飼育が可能なヤギ・ヒツジなどの小型家畜です。移動しながら、必要に応じて1頭ずつ食料にしていきます。5人家族の場合、ヒツジ1頭がおおよそ1週間の食材にあたるようです。

遊牧民がヤギ・ヒツジという食材をとても大事に扱っているところを、筆者は何度か見る機会に恵まれました。彼らは、ヤギ・ヒツジの肉を丁寧に無駄なくさばくのですが、この過程に、遊牧民の真の「いただきます」がありました。

なんとモンゴルの遊牧民は、血液を体外に出さないようにヤギ・ヒツジを屠殺(とさつ)するのです。

血液が残った肉は傷みやすく、食味も悪くなるため、日本では屠殺の際に放血(血抜き)します。しかし、遊牧民の屠殺は違います。ヤギ・ヒツジの胸骨の下(人のみぞおちにあたる個所)に、片手を入れられる程度の切り口を作り、そこから手を差し込んで、お腹上部の大きな血管を爪や小さな刃物で切るのです。当然ながら血管を切ることで大出血が起こりますが、お腹を開いていないため血液は腹腔(ふくこう)に溜まります。

溜まった血液をくみ取り(写真2)胃袋や腸に注いで(写真3)乾燥やボイルをすれば、血液の塊であるブラッドソーセージのできあがりです。血液という総合栄養食品によって、野菜を食べることなくミネラルやビタミンを得られます。

写真2:屠殺したヤギから血液をくみ取る

写真3:血液を胃や腸に詰める

スープなどに利用するのでしょうか、骨も無駄にはしません。

胸郭でできたバスケットに、バラバラになった様々な部位の骨を入れたものが、マーケットでセット売りされていました(写真4)。とにかく捨てる部位がないのです。

写真4:胸郭をバスケットに。中には様々な部位の骨が入っている

家畜の糞も、放牧民の燃料になります(写真5)。雨量が少なく湿度が低いモンゴルでは糞がよく乾燥するため、燃やすことができるのです。

反芻動物の糞には、咀嚼されたあとの細かな未消化繊維が多く含まれています。このため、コークスやお灸のようにじりじりと炎を上げない燃え方をするにもかかわらず、強い火力が出ます。

写真5:燃料用に集めた家畜の糞

家畜の肉ばかりではなく、血液、骨、糞までも捨てずに利用する。このようなかたちで、遊牧民は「いただきます」を実践していました。

遊牧民が家畜のすべてを無駄にせず活用するのは、仏教に由来した行いではなく、厳しい自然の中で生きていくための知恵によるものです。しかしながら、筆者はモンゴルの遊牧民の食生活に、「いただきます」と共通する「命の循環」の思想を見た気がしました。

厳しい自然の中でこそ、声を大にせずともSDGsの精神が生まれるのかもしれません。

【執筆】
杉田昭栄(すぎた・しょうえい)
1952年岩手県生まれ。宇都宮大学名誉教授、一般社団法人鳥獣管理技術協会理事。医学博士、農学博士、専門は動物形態学、神経解剖学。実験用に飼育していたニワトリがハシブトガラスに襲われたことなどをきっかけにカラスの脳研究を始める。解剖学にとどまらず、動物行動学にもまたがる研究を行い、「カラス博士」と呼ばれている。著書に『カラス学のすすめ』『カラス博士と学生たちのどうぶつ研究奮闘記』『もっとディープに! カラス学 体と心の不思議にせまる』『道具を使うカラスの物語 生物界随一の頭脳をもつ鳥 カレドニアガラス(監訳)』(いずれも緑書房)など。