日本の猫の歴史【第2回】文章に著される猫たち

イエネコが日本の本土に渡来したのは奈良〜飛鳥時代だろうとわかっていますが、奈良時代の『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』などに猫についての記述はみつけられません。

写真:赤坂動物病院の窓辺にて、青山通りを背景に撮影した保護猫

最古の猫の記述は?

日本国現報善悪霊異記

現時点でもっとも古いものと言われているのは、奈良時代に著され、平安時代のはじめ頃に編纂されたとされる、仏教説話集『日本国現報善悪霊異記(にほんこくげんほうぜんあくりょういき)』(通称:日本霊異記)の記述とされています。作者は在家私度僧出身の薬師寺僧である景戒と言われており、猫が登場するのは上巻の第30話です。しかし、この話に登場するのは実物の猫ではないのです。

『日本国現報善悪霊異記』上巻 第30話
藤原京時代の705年(慶雲2年)に、豊国宮古郡(現在の福岡県東部)の少領膳臣広国(かしわでのおみひろくに)が急死し、地獄で亡父に会い、話を聞きます。
父親は生前のいくつかの悪行のため、地獄の責め苦を受け、特に飢えの苦しみに苛まれていました。その苦悩から逃れ空腹を満たすために、姿を変えて何回か息子の家を訪れていたというのです。
「亡くなった最初の年の7月7日大蛇の姿で家に入ろうとすると杖で打たれた。2年目の5月5日に赤狗(あかいぬ)の姿で再び入ろうとしたらお前(少領膳臣広国)が飼い犬を呼んで追い立てさせ追い出された。3年目の1月1日に狸(禰古:ねこ)になって家に入ったときには、供物を食べて飢えをしのぐことができた。それは地獄では3年の飢えをしのぐ糧となった」
父親からこの話を聞いた広国は、その後の供養を頼まれます。そして、死んでから3日目に生き返ります。

当時の猫は貴重な動物であったことも背景にあるのかもしれません。猫の姿になることで供物を食べられたのは、家に入ることを許された猫につい気を許してしまったのか、猫だからするりと入ってきても咎められなかったのか。現代の私たちでも想像できる情景です。

狸や虎と呼ばれる猫

新撰字鏡

現存する日本最古の字書(じしょ:漢字を分類した辞典)『新撰字鏡(しんせんじきょう)』には、「狸、猫也。似虎小、祢古(狸は猫なり。虎に似て小なり)」と、「狸」で猫を表現しているらしき記述があります。「猫」の項目がないことからも、「狸」が猫を表すものであったと推察されます。

本草和名

「猫」の項目が初めてみられたのは920~923年の薬物辞典『本草和名』であり、「家狸、一名猫、和名祢古末」と記されています。家狸は猫のことであり、猫が人とともに家で暮らしていた様子がうかがえます。鎌倉~室町時代には、家で暮らす猫を表す字として「猫」が一般的になったようです。鎌倉~室町時代の一般的な呼称は「ねこま」で、語源としては「よく眠る可愛い子馬のようである(寝駒)」や「高麗からやってきた(寝高麗)」などの説があります。しかし、それ以前の平安時代には既に「ま」がなくなり、「ねこ」と呼ばれるようになっていきました。

夫木和歌集

また、類聚和歌集(テーマ別で和歌を分類収集した和歌集)である『夫木和歌集』は、珍しいテーマで詠まれた歌を集めており、その中には猫の雅称として「手飼いの虎」を使った、大変興味深い和歌があります。

古今和歌六帖の第952番の詠み人知らず
――浅茅生の小野の篠原いかなれば手飼いの虎のふしどころみる

こちらは、外で暮らす猫を詠んだ歌のようです。

夫木和歌集12918番土御門院御製
――人心手飼いの虎にあらねどもなれしもなどかうとくなるらん

こちらは、猫のように人の心も近づいたと思うと離れていく……という恋の歌ではないかとされています。

猫を「手飼いの虎」と呼び、「親しく暮らすミニ虎」と捉えているところがなんとも興味深く、当時の人々に共感できます。

日本最古の「家猫日記」

日本の猫の歴史を語る上で外せない書物を紹介します。

現存するもので日本最古の家の猫、いわば伴侶動物としての猫の記載の最古の記述を残しているのは誰なのでしょうか。

寛平御記

第59代宇多天皇は885年(仁和元年)、中国から渡来した黒猫を育てていました。太宰府の役人である藤原の精(くわし)が光孝天皇に贈り、光孝天皇が息子(後の宇多天皇)に譲ったとされている猫です。

宇多天皇の日記『寛平御記』には、猫の様子や被毛の色、行動までが、愛あるまなざしで書き残されています。宇多天皇が日記に綴った次の文章に、感性の美しさを感じます。

語りかけると猫はわたしを見上げて何かを言うような仕草をしたが、声にはならなかった。普通の猫は浅黒い色だが、この猫は墨のように漆黒で艷があり、瞳が輝いている。

サイレントミャオをしていますね!

乳粥と呼ばれる、当時のヨーグルトのような貴重な食べ物を与えていた記載もあり、猫との交情や、猫の容貌、どのように育てていたかがつぶさに記されています。獣医史学的にも、動物愛護・福祉史の視点からも、とても重要で貴重な書物です。

写真:『寛平御記』2月の2行目に猫の記述がある(国会図書館デジタルコレクションより)

猫が出てくる文書がぞくぞく

ほかにも猫を記した文書をご紹介します。

源氏物語

『源氏物語』の若菜の巻では、女三宮と柏木の出会いのシーンで猫が登場します。

当時の猫は、貴重な動物として屋内で紐につながれて暮らしていました。まだあまり人慣れしていない子猫が他の猫に追われ逃げだし、紐が御簾に引っかかり引き上げてしまいます。このことで、蹴鞠に興じて庭にいた柏木が、御簾の奥に佇んでいた女三宮の姿を垣間見てしまいます。

柏木の心に抑えきれない恋情がわき上がるという物語のきっかけを、子猫が作るのです。

更級日記

『更級日記』には、菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)により記されたエピソードがあります。

友人である藤原行成女(ふじわらのゆきなりのむすめ)が15歳で急逝した後、菅原孝標女は外からやってきた猫と暮らしはじめます。すると猫が夢枕に立ち、自分は実は藤原行成女の生まれ変わりであると告げます。

枕草子 第9段

『枕草子』の第9段には「うへにさぶらう御猫は」として、猫について書かれています。

一条天皇の側で暮らす猫は、命婦のお許(みょうぶのおとど)という名前を拝し、従五位下の位をもつなど、それは大切にされていました。この猫の出産の折には、通常は貴人の家でのみ行う祝宴である産養(うぶやしない)まで開かれる寵愛ぶりで、「馬の命婦」という乳母までつけられていました。しかしある日、言うことを聞かない命婦のお許をこらしめようと、馬の命婦が犬の扇丸をけしかけます。罪のない犬が罰を受けて島流しにされたのち、変わり果てた姿で戻ってきて、やがて許されるという心痛む話です。

『枕草子』 第50段

『枕草子』の第50段には「猫は、うへの限り黒くて、腹いと白き。(猫は、背中が黒くてそれ以外は白いものが良い)」という記述もあります。『寛平御記』に登場したのは漆黒の猫でしたが、清少納言には毛色にこだわりがあることなどがうかがえる面白い一節です。

有名な鳥獣戯画では虎縞の猫が描かれています。和歌の雅称は「手飼いの虎」なので、こちらもおそらく縞柄の猫なのでしょう。『今昔物語』では「灰毛斑」とありますので、時代によって猫の模様にも変遷があるようです。猫の被毛や尾のお話なども、またご紹介できればと思います。

以下は箸休めのイラストです。

絵:お茶を飲む猫(筆者によるペン画)

【執筆者】
柴内晶子(しばない・あきこ)
獣医師、⽇本動物病院協会(JAHA)内科認定医、⾚坂動物病院(東京都港区、https://akasaka-ah.com/ )院⻑。1986年より⽇本動物病院協会CAPP活動(動物介在活動ほか)に参加。⽇本⼤学農獣医学部(現:⽣物資源科学部)獣医学科卒業。日本獣医畜産大学臨床病理学教室研修生を経て、93年より赤坂動物病院勤務。人と動物の絆を礎にした伴侶動物医療をモットーにしながら、社会貢献活動としてCAPP活動を推進するとともに、保護猫・保護犬の譲渡活動も継続している。また、農林⽔産省獣医事審議会委員、農林⽔産省薬事・⾷品衛⽣審議会薬事分科会動物⽤医薬品等部会動物⽤再⽣医療等製品・バイオテクノロジー応⽤医薬品調査会委員、⽇本獣医史学会評議委員、⽇本臨床獣医学フォーラム幹事、⽇本動物愛護協会評議委員、⽇本⼤学⽣物資源科学部⾮常勤講師、ねこ医学会CATvocate認定講座講師などを務める。