東アジアの干支文化と馬

干支の由来―最初は卜い(うらない)から

干支とは、中国を起源として朝鮮半島や日本などの東アジア諸国に広がった、暦法上の用語です。甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の「十干(じっかん)」と子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の「十二支」を組み合わせ、「壬申の乱」や「甲子園」というように事件の年や建造年を示すために用いられてきました。たとえば、令和8年(2026年)は「丙午(ひのえうま)」です。この組み合わせは、10と12の最小公倍数である60で一巡するので、60歳を「還暦」といいます。

干支の起源は紀元前15世紀ごろ、中国の殷王朝で使われていたことが甲骨文から確認されています。殷では、亀の甲羅や家畜の骨を焼いて行う卜いが盛んでした。そして、その結果は甲羅や骨に刻み込まれました。これを甲骨文字といい、漢字の源流とされています。

商周遺文会 編『亀甲獣骨文字』巻1、商周遺文会、大正10、 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1185462 (最終閲覧2026年1月14日)より抜粋

この頃の干支は「丙寅(ひのえとら)の日に争という人物が卜いをして神に質問する」というように、日づけにあてはめて用いられていました。その後、紀元前8世紀の春秋戦国時代には、年や方角にあてはめて用いるようになったとされています。

日本に干支の文化が入ってきたのは、中国の暦を取り入れた時だと思われます。干支が確認できる、日本で製作されたものの古い例として、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣に「辛亥年七月中記」の文字が確認されています。これは古墳時代である5世紀ごろのもので、「獲加多支鹵大王(わかたけるのおおきみ)」(雄略天皇)の文字が見えることから、確実に日本で製作されたものです。もちろん、渡来人が関わっていたのでしょうが、その頃の日本人が中国の暦のシステムをかなり理解していたことが考えられます。

平安時代の貴族で、歌人でもある紀貫之の『土佐日記』には「爪が長くなったが、子の日なので切らなかった」とあり、この頃には日の干支によるタブーがあったことがわかります。

紀貫之(前賢故実)菊池容斎(武保)著、『前賢故実』巻之5、東陽堂、明36、3,国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/778229(最終閲覧 2025年12月12日)

干支と動物―午は馬にあらず

私たちは「去年は巳年ですから、ヘビーでしたね」「今年は午年ですから、元気よく駆け抜けたいですね」などと話しますが、本来十二支の「巳」や「午」に蛇や馬という意味はありませんでした。中国では十二支に動物を当てはめた場合、それを「十二生肖(じゅうにせいしょう)」とか「十二属相(じゅうにぞくしょう)」といいます。

これも起源は古く、紀元前200年ごろのものとされる湖北省雲夢県(こほくしょううんぼうけん)の睡虎地秦墓(すいこちしんぼ)から出土した「睡虎地秦簡」にすでに見えます。これは、のちに中国を統一した、漫画『キングダム』(集英社、2006年~)でおなじみの秦の国で用いられていた『日書』と呼ばれる占い関係の書物の一部とされています。ただし、そこでは「子とは鼠で……」と説明がされているのですが、「巳は蟲で……午は鹿で……戌は老いた羊である」とあり、現在とは違う動物があてはめられていたことがわかります。

その後、紀元1世紀ごろに活躍した後漢の思想家・王充(おうじゅう)の『論衡(ろんこう)』では、現在と同じ動物があてはめられています。しかし、なぜ十二支に対して特定の動物をあてはめようとしたのかは、よく分かっていません。

さらに、5世紀から6世紀の南北朝時代になると、墓の中に十二支像を置いたり、天井に十二支を描いたりすることが増えていきます。これは、方角に十二支をあてたことから、その方向の守護神とされたことによるのでしょう。のちに、庭園などにも十二支像が置かれるようになり、周辺諸国にも広まりました。朝鮮半島では金庾信(きんゆしん)将軍墓に、日本ではキトラ古墳に、それぞれ獣頭人身の十二支の造形や絵画が確認できます。飛鳥・奈良時代の歌を集めた『万葉集』には、「卯」と書いて「う」と読んだり、「申」と書いて「まし」(猿の古語=ましら)と読んだりする表現があるので、この頃には十二支を動物にあてはめる発想が普及していたと考えられます。

その後、日本では、薬師如来の周りを守る十二神将それぞれに十二支のイメージが結びついていき、新薬師寺や東大寺にその作例があります。しかし、これらはどうやらほかの国には見られない展開のようです。

おわりに―新年と馬

弥生時代の邪馬台国について記した「魏志倭人伝」には、倭国(日本)には牛馬がいないと記されており、日本人と馬との関わりは古墳時代に始まると考えられています。

奈良時代になると、正月の七日に天皇が白馬をみる「白馬節会(あおうまのせちえ)」が行われるようになります。この日に「あおうま」を見ていたことは、『万葉集』の大伴家持の歌に

水鳥の 鴨の羽色の 青馬を 今日見る人は 限りなしといふ
(水鳥の鴨の羽の色のような青色の馬を、今日見ることができる人の寿命は限りないといいますよ)

とあることからわかりますが、当時は白い馬ではなかったようです。もともと、中国の『礼記』などで「青は青春で陽」「馬も陽」という思想が見えており、中国の陰陽思想に基づき、春先に明るいエネルギーを吸収しようとする行事であったと思われます。

白馬節会 『宮中御儀式絵巻物』、写、国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2541051(最終閲覧日 2025年12月12日)

しかし、平安時代半ばごろには白い馬になり、現在では京都の上賀茂神社の白馬奏覧神事(はくばそうらんじんじ)などが行われています。白い馬になった理由はわかりませんが、白を清浄として重んじる日本人の発想にあわせたのではないかといわれています。

干支も白馬節会も、中国に思想的な源流があり、東アジア全体に広がって日本でもその形を変えながら現代まで伝わってきました。新年にあたり、文化の広がりとそれぞれの国での変容という視点から、今後の世界についても思いをいたしてみてください。

[参考文献]
・諸橋轍次 著、『十二支物語』、大修館書店、1988年
・山中裕 著、『平安朝の年中行事』、塙書房、1972年
・落合淳思 著、『殷―中国史最古の王朝』、中央公論新社、2015年
・川瀬由照 著『日本の美術 No.518 十二支』、ぎょうせい、2009年

【執筆】
久禮旦雄(くれ・あさお)
1982年大阪府生まれ。京都産業大学法学部教授(日本法制文化史)。京都大学大学院法学研究科博士後期課程修了、博士(法学)。日本学術振興会特別研究員、三重大学・園田学園女子大学非常勤講師、公益財団法人モラロジー研究所研究員を経て、2018年4月より京都産業大学法学部准教授に着任。2025年4月より現職。共著に『元号読本』(創元社、2019年)、『よくわかる日本法制史』(ミネルヴァ書房、2025年)、『怪異から妖怪へ』(文学通信、2025年)など。

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