ライチョウは、国の特別天然記念物の鳥です。本州中部の高山地帯に生息し、長野・富山・岐阜の3県の県鳥に指定されています。現在、高山地帯の観光地化や、野生動物の侵入、地球温暖化などによって生息数の減少が危惧されています。
今回の記事では、そんなライチョウと日本人のかかわりの歴史をご紹介していきます。
動物大好き? 徳川吉宗
岐阜県と長野県にまたがる乗鞍岳(のりくらだけ)は、ライチョウの主だった生息地の1つであり、保全活動の拠点となっています。
江戸時代に、この乗鞍岳のライチョウを江戸へ献上するよう命じた人物がいました。江戸幕府第8代将軍の徳川吉宗です。
徳川吉宗はタカ狩りを好み、犬公方として有名な第5代将軍の綱吉が出した生類憐みの令により停止されていたタカ狩りを復活させました。それまで輸入に頼っていた薬種を国内で自給できるようにするため、全国に動植物の調査を命じたりもしました。また、海外の書物の輸入規制をゆるめたり、ウマやイヌを輸入したり、ゾウを江戸へ連れて来たりしています。吉宗は珍しい動物への関心が高く、ライチョウの前にウトウやペリカン、シマフクロウなどを献上させています。
18世紀中ごろの乗鞍岳とライチョウ
飛騨高山の代官から徳川吉宗に、乗鞍岳のライチョウ3羽が献上されたのは、1744年(延享元年)6月のことでした。
この代官が記した「乗鞍嶽雷鳥一件書上」という古文書などから、当時のライチョウの様子を紹介していきます(当時の日付は旧暦のため、ここでは新暦で表記します)。
山に入って木材を切り出す杣人(そまびと)の話によると、ライチョウは数多くいるようには見えないものの、2、3羽見かける時もあれば、10羽や、14、15羽ほど集まっているのを見る時もあったようです。数多く見かけるのは小雨または曇りの時で、晴天時に多く見ることはなかったようです。高山地帯ではライチョウ以外の鳥や動物はほぼ見かけず、ハギマシコ(飛騨では野菊と呼称されていた)という小鳥を少し見るくらいでした。
当時は頂上まで登山する人も稀でした。この頃の乗鞍岳は今より火山活動が活発で、ライチョウが生息していた一帯は異臭がたち込めており、眼に刺激があったばかりか痛みも出たようです。頂上へ近づくほどに異臭は強くなりました。頂上からは煙のようなものが上がり、岩石が焼けているように赤く見えたほか、水の風味も良くなかったといいます。
ライチョウ観察記録
ライチョウを捕獲したのは、御巣鷹御用(おすたかごよう。将軍がタカ狩りに使うタカを捕獲して飼養する仕事)を勤めた親子と、山のふもとの村人たちです。6月2日から乗鞍岳に登りはじめ、6月5日の早朝にライチョウのオス2羽を捕らえました。しかし、2羽とも間もなく身体が弱って死んでしまいました。
この2羽のライチョウの大きさや羽の色については、以下のような記述がありました。
・ハトに似た形であり、ハトより大きい。
・嘴と眼は黒色をしている。
・羽全体・頭・胸・背・尾は黒く、柿色のような細い羽毛がある。嘴の下や眼のまわりは白と黒が交じっており、背の内も白い羽が交じっている。腹と両翼は白い羽。2羽は似ているが、1羽は胸まわりの黒い部分がすこし多いように見える。
・眼の上にトサカがある。トサカは紅色であり、あざやかな深紅色のようにも見える。
・尾羽の数は16枚ある。左右5枚ずつで合計10枚あり、その上に6枚の尾羽がある。羽の先端は飼鳥のような丸羽ではない。角というより、少し剣先のように見える。
・足の前後ともに爪のキワまで獣の毛のような白い毛があり、地肌は見えない。特に足の後ろ側は、毛が太く強い。爪の色は黒く、前側には爪が3本あり、後ろ側の掛け爪はとても短い。足裏の皮はネズミ色をしている。
・重さは1羽あたり412グラム程度ある。全体的に肉は厚く、よく肥えているように見える。
ライチョウの餌付け
ライチョウを捕獲したあとは、餌付けをして江戸へ運ぶように命じられていました。
ライチョウの餌が何かを調べるために、死んだオスのライチョウを解剖して胃袋をひらくと、五葉松の葉のような細い松葉(ハイマツの葉)や木の実などが出てきました。
一同は、2羽のライチョウを捕らえた翌日に3羽のライチョウを捕獲しました。オス・メスのつがいは同じカゴに、オスの1羽は別のカゴに入れ、すぐに餌付けをすることになりました。
山の上でライチョウが食べていたと思われる松葉と、木の実3種、すり餌がカゴの中に入れられたほか、米・麦・ソバ・大小の豆などが入れられました。
すると、入れておいた葉と3種の実にはむしり食べた様子があり、すり餌にも嘴でつついた跡がありました。米や麦などはまったく食べなかったものの、ライチョウの体には弱った様子もなく、馴れてきたように見えたようです。ライチョウ3羽は、御巣鷹御用を勤めた親子の家で10日ほど昼夜念入りに餌付けされ、無事に江戸へ運ばれていきました。徳川吉宗は、江戸に到着したライチョウを目にしたことでしょう。
写生された乗鞍岳のライチョウ
江戸に運ばれたライチョウたちは長く生きられなかったようですが、その姿を描いたと思われる絵(図1~4)が残っています。
図1~4の絵図は、ライチョウを直接見て描いたものではなく、ライチョウの写生図から写し取った模写図です。当時、写真やコピー機はなく、剥製をつくる技術も発達していませんでした。ライチョウといった、なかなか目にすることが難しい鳥を手元に残しておきたいと思うと、その写生図を模写するしか方法はありませんでした。
図2に描かれたオスのライチョウの全長(嘴から尾羽まで)を測ったところ、約33.7センチメートルありました。模写図の元図と思われる絵は、1744年(延享元年)7月に徳川吉宗の側近であった岡本善悦が描いたものです。その元図のライチョウの全長も約33.8センチメートルのため、かなり実物に近い大きさで描かれたのだと思われます。
江戸時代後期に、鳥の写生図(模写図を含む)を集めた様々な鳥図鑑(『奇鳥生写図』:図1、『梅園禽譜』:図2~4)などが作られるようになり、そこに徳川吉宗が見たライチョウも残されていくことになりました。
[参考文献]
・「乗鞍嶽雷鳥一件書上」『岐阜県史 史料編近世8』岐阜県、1972年
・国立国会図書館 電子展示会「描かれた動物・植物 江戸時代の博物誌」2005年
https://www.ndl.go.jp/nature/utility/aim.html
・磯野直秀『日本博物誌総合年表[索引・資料編]』平凡社、2012年
・今橋理子『江戸の花鳥画』講談社、2017年(初出1995年)
・楠田哲士編著『神の鳥ライチョウの生態と保全』緑書房、2020年
【執筆者】
中尾喜代美(なかお・きよみ)
愛知県生まれ。愛知大学文学部卒業、名古屋大学大学院文学研究科修了(歴史学修士)。愛知県内で自治体史編さん事業に携わり、その後、岐阜大学地域科学部地域資料・情報センターで、同大教育学部附属郷土博物館に所蔵された古文書の目録作成や史料紹介に従事。岐阜県内を中心に古文書講座や講演会を行う。『岐阜大学教育学部郷土博物館収蔵史料目録』(1)~(10)・『岐阜大学地域科学部地域資料・情報センター 地域史料通信』創刊号~11号の編集・執筆。楠田哲士編著『神の鳥ライチョウの生態と保全』(緑書房)で「江戸時代のライチョウの捕獲と献上」を執筆。