「飛ぶもの」を捕まえるアトム
たいがいの猫は飛ぶものが好きだ。うちの7匹が窓辺にうちそろい固唾を呑んでみまもる先には、鳥にチョウ、舞い落ちる雪片やら花びらやら風に翻る鯉のぼりやら。
揺れるカーテンはもれなくボロボロになり、風にパタパタする素敵なブラインドも、猫が飛びついたかたちにあっけなくへし折られてしまう。いつかは自分も飛んでいくものと思っているのかもしれない。『ゲド戦記』の著者アーシュラ・K・ル=グウィンの『空飛び猫』というお話には、実際、翼の生えた子猫たちが出てくる。キジ柄の背中のおそろいの翼は天使の羽のようで愛らしい。
けれどもちろん、例外はある。
生まれてせいぜい半年ほどの時分に、ひとり、うちの庭にやってきたアトム(キジ猫のオス)は、当初、飛ぶものを怖がった。洗濯物がはためくのも、ひろげたシーツのしわを伸ばすのもだめだった。頭の上を何か影が過るだけで、固まってしまう。
「カラスに襲われたことがあるのかも」
「よっぽど怖い思いをしたんだね」
私たち人間の家族はそう納得して、カーテンが動かないように束ねた。シーツもベッドカバーもタオルも端から少しずつ折り畳みまた、少しずつ折り返しながらひろげた。
こうして少しずつ、子猫も安心を学んだ。いつごろから、飛ぶものを怖がらなくなったかは覚えていない。
そんなアトムがアゲハチョウをくわえてきたことがある。
私は庭で洗濯物を干していた。靴下をピンチにとめ、ふと振り返ると、足を突っ張って棒立ちのアトム、その口のあいだで大きなアゲハがバタついている。
私は虫にはちょっとくわしい。とっさに、「ナミアゲハだ」と思ったが、問題はそこではない。
口が塞がっているアトムは静かに大パニック。アゲハもそりゃもう、大パニック。
どうする。
どうしよう。
ともかくここは動いちゃいけない。
私はピンチにのばした手を宙で止め、棒きれみたいに突っ立ったまま、
「トンちゃん」
と、呼んでみた。いつものように。
するといつものように、お返事するべく反射的にアトムの口が開いた。瞬間、アゲハは舞い上がり、ひらり、屋根を越えて消えた。
その一点に思わず目を凝らす。
空がしみじみ青い。
アゲハが越えたのは、幸運と不運の境界だった。運不運は表裏一体だ。不運に見放されることだってあるのだ。
夏のはじめのあかるい朝のことだった。
無力という名の力
それにしても運不運で分けるなら、いま、飛んでいるチョウはおおかた、運のいい側だと思う。なにせアゲハチョウに限っていえば、卵から無事、成虫になる確率は6%ほどなんだそうだ。人間と比較はできないが、ずいぶん厳しい数字だって気がする。
実際、孵化して幼虫になり、4回の脱皮を経てサナギになり、そしてようやく飛べるもの(チョウ)になっていく過程は危険でいっぱいだ。鳥に食べられ、アオムシコバエなんかに寄生され、地面に落ちればアリの餌食、「脱皮」と簡単にいうけれど、これもかなりむずかしい。服を着替えるのとはわけが違う。服だとしても、手足がふにゃふにゃのキャタピラだったら? と想像してみてほしい。そこからさらにサナギになるには、いったん身体を液状化するという大技が待っている。おっと、その前に、サナギ→チョウになるべく適切な場所への大移動、というミッションがあった。無力を絵に描いたようなアオムシくんが果敢に育った木をおりて、草をかきわけ泥を越え壁を上り、雨のかからない安心な場所を探す、探す、探す。ついに、ここ、と思い定めたところ――郵便受けの下だったりする――でほぼ2週間、やっとこさサナギ→チョウに! でもその「変態」こそ最難関。できたての羽が乾くのにまた2時間超。
どうしてこんなにこんなに、無力なんだろう? 神さまは何かシステムデザインのやり方を間違えたのでは?
なんだかほうっておけなくて、このごろ、暖かな季節になるとバタフライケージを立て、チョウを卵から保護――捕獲か?――している。効果はてきめんで、ほぼ100%が次々と飛び立っていく。うちには「こんな丸い手じゃニャンにもできないよ」と年がら年中「無力」を主張する猫たちもいて、はなから猫の手など当てにならず、てんてこ舞い。
『空飛び猫』のお母さんは子猫たちにこう言って聞かせる。「もしお前が良い”手”をみつけたら、もう自分で餌を探す必要はなくなるんだよ」。そしてこうも言う、「でもそれがいけない悪い”手”だったら、それは犬よりもたちが悪い」と。
「良い手」でありたい私は、ケージも部屋もこまめに掃除して清潔を保ち、ごはんに気を配り、それぞれの不調に気を揉む。無力なるものにかしずいて、日夜、勤勉に働きながら、「無力」は人を動かす力なのかもしれないと、うすうす感づいている。
無力という名の力。
侮れない。
【執筆】
岡田貴久子(おかだ・きくこ)
1954年生まれ。同志社大学英文学科卒業。『ブンさんの海』で毎日童話新人賞優秀賞を受賞。『うみうります』と改題し、白泉社より刊行。作品に『ベビーシッターはアヒル!?』(ポプラ社)『怪盗クロネコ団』シリーズ、『宇宙スパイウサギ大作戦』シリーズ(以上理論社)『バーバー・ルーナのお客さま』シリーズ(偕成社)など多数。『飛ぶ教室』(光村図書出版)でヤングアダルト書評を隔号で担当。神奈川県在住。