いくつになっても「初めてのこと」というのはある。
人生の時間は生きている限り動いているから、それは当たり前のことなのだけど、普段はそんなこと忘れている。目の前の時間を生きるのに精一杯だから。だから人生はゆきあたりばったりだと、私はそう思っていて、思いながら「宿題は計画的にやりなさい」などと、子どもが小さな頃は言い聞かせていたのだから、なかなか罪深い。
そもそも一日一日が「初めまして」だ。
同じ一日は二度とない。
敬愛する絵本作家・片山令子さんの「そして思いました。わたしもまた、きのうとは違う、あたらしい世界にきょう生まれてきた、小さいこどもなんだと。」(『惑星』*¹より)という言葉を引くまでもなく。
それはさておき。
とっておき。の「初めて」の話をしよう。
グレープフルーツに謎の来客
よく晴れた11月のはじめ。
庭のグレープフルーツの木のいっとう日当たりのいい葉っぱの上に、小さな小さな芋虫がいた。黒っぽい糸くず大の、おなかにくるりと白い腹巻を巻いたような模様の。
ぱっと見、ナミアゲハの幼虫だと思った。
春から夏いっぱい、グレープフルーツの木にはアゲハチョウが飛来しては産卵する。うちは関東南部の市街地にあるので、そのおおかたがナミアゲハだ。ぽつんとまんまるな卵が孵化するとまもなく、白い腹巻模様の一令幼虫になる。小さな小さな芋虫はその一令幼虫に似ていた。
だが、その「似ている」というのが曲者なのだ。「似ている」という時点ですでにそのものとは別物なわけだから。
よくよく見れば、芋虫にはピンピンとヒゲみたいなツノみたいなものがあり、同じくピピンとしっぽみたいなのがあった。
子どもの頃から虫にはちょっとくわしい私にも未知の芋虫だった。
模様からするとナミアゲハっぽいけれど全体の色合いが微妙に薄い。だいたい、朝晩冷えるこの時期に孵化するだろうか、アゲハの孵化はとっくに終わっているのに、いやしかしもしアゲハじゃないのなら……と、つついてみれば、アゲハの幼虫アオムシ特有の臭角を出して威嚇する。
やっぱり、ナミアゲハ? の、変種? だとしたらこれも、ナミアゲハ?
それともなにかに寄生されてる?
脱皮の途中? いやそれなら、こんなふうに動けないのでは? 見ていると、小さな小さな芋虫はツノをふりふり、葉っぱのふちを小さく小さくかじりとる。チョウの幼虫は食草が決まっているから、これがチョウになるからにはやはり、柑橘系を食べるアゲハの仲間なのでは? うーん……。
スマホで写真を撮って調べても、芋虫の顔は似たりよったりでらちが明かず、漫才みたいな堂々巡りを一人やりつつ、目をこらし過ぎて腰が痛くなり、日が陰って寒くもなり―。なんにせよ、この寒さでは生きていけまい、というわけで、結局、グレープフルーツの枝ごと切り取って、アオムシ(仮)くんをうちにつれてきたのだった。
初めましてのアオムシ(仮)くん
猫たちの魔手におちぬよう、2階のトイレを閉めきる。
ミニオイルヒーターを入れ、濡れタオルをかけ、温・湿計を置いて、温度20度湿度50パーセントに―ちょうど日当たりのいい葉っぱの上ぐらいに。水を含ませたオアシスをボウルにはめ込んで、新鮮なグレープフルーツの枝をぽつぽつ刺せば、アオムシ(仮)くんは気ままに移動しながら葉っぱをパリパリむしゃむしゃ食べる。葉がしおれたら取り替え、それをまた食べ尽くせば取り替えて、アオムシ(仮)くんの食べに食べること! エリック・カールの『はらぺこあおむし』*²さながら。
2令、3令と、じわじわと脱皮を重ねながら成長する様子は間違いなくアゲハの幼虫アオムシくん、(仮)は早々に取れた。
が、見慣れたナミアゲハじゃない。
緑の色が深いし、頭の形も違う。ナミアゲハの頭は丸っこいのに、このアオムシくんのは三角―、なんというかこう、ちっちゃなコブラみたいなのだ。全部のナミアゲハを知っているわけじゃないけど、見間違いとか個人差とかの範疇では語れない、明確な違いがあった。そういえば、脱皮のスピードもナミアゲハに比べて明らかに遅い気がする。
じゃあ、何者?
そこで、これかなと当たりをつけたのがカラスアゲハ。クロアゲハ。
食草はサンショウ科ながら柑橘系の植物も食べるし、幼虫の頭は三角だ。大型のチョウだから育つスピードも遅いんじゃないの?―という仮説は、西洋の諺「よく育つものはゆっくり育つ」から見当をつけた。
「クロちゃん」と名前もつけた。
幼虫のままでは冬を越せないが、サナギになれば越冬して、春には羽化できる。
「頑張れ、クロちゃん!」
むしゃむしゃと無心に葉っぱを食むアオムシくんに、私はつい声をかける。
「しっかり育つんだよ、チョウチョになってね、ひらひら飛んでいくんだよ」
と、思いがけず切実な声が出てしまう。
「きみは吉兆、頑張れ!」と。
吉兆に願いをかける
チョウは古今東西、スピリチュアルな象徴として語られがちだ。幼虫からサナギを経て成虫になる劇的な変化が、不死不滅や輪廻転生のイメージに重なるからかもしれない。なにも殺さずなにも傷つけず、葉を食べて花の蜜を吸い一生を終える慎ましさは神々しい。
人知の及ばぬ領域はあると思うものの、私にはスピリチュアル(霊的な)感応力が全然ない。が、それでも「チョウは吉兆」と言葉にしたくなるのは、胸に切実な願いがあるからだ。
うちの13才の猫チッチ(白キジ柄・♀)が高悪性度の消化器型リンパ腫と診断されて、春から闘病している。生存の中央値56日という厳しさを、一日また一日と生き抜いてまもなく10か月になる。
一日また一日を祈るように数えつつ、「チョウは吉兆」と言葉にする。声に出す。耳で聞いて、一日一日。
さて、クロちゃんだが、先日、ついに終齢幼虫になった。
翡翠みたいな深緑、背中に元町の近沢レース店で仕入れたかというような見事に繊細なレース模様があり、コブラ頭を複雑な文様がぐるっと縁取る―なんてきれいなアオムシくん、見たことのないアオムシくん。
なんとナガサキアゲハの幼虫なのだった。
国内最大級の南国産のチョウ。
その名前はシーボルトが初めて日本で採集したチョウに由来する。近年、温暖化の影響で関東でも見られるようになったそうな。
アイドルがうちに来てくれたような晴れがましさ。……このまま、クロちゃん、と呼んでいていいんだろうか?
*¹『惑星』(片山令子著、2019年、港の人)
*²『はらぺこあおむし』(エリック・カール著、もりひさし訳、1976年、偕成社)
【執筆】
岡田貴久子(おかだ・きくこ)
1954年生まれ。同志社大学英文学科卒業。『ブンさんの海』で毎日童話新人賞優秀賞を受賞。『うみうります』と改題し、白泉社より刊行。作品に『ベビーシッターはアヒル!?』(ポプラ社)『怪盗クロネコ団』シリーズ、『宇宙スパイウサギ大作戦』シリーズ(以上理論社)『バーバー・ルーナのお客さま』シリーズ(偕成社)など多数。『飛ぶ教室』(光村図書出版)でヤングアダルト書評を隔号で担当。神奈川県在住。