猫好きさんにおすすめスポット【第7回】新潟:気比神社「化け猫の公文書」後編

人を誑(たぶら)かしては人を殺め、畏れを振りまく猫又伝承。日本各地で猫又の存在が語られてきました。猫又は本当に存在したのでしょうか? 過去の猫又は恐怖の対象でしたが、現代の人々はその妖しい力に興味を惹きつけられています。

気比神社には、猫又の存在を確かめる手掛かりがひとつ残されています。気比神社の座する中ノ又集落には、猫又の存在が伝承だけでなく、公文書の記録として残されているのです。その公文書には、猫又に襲われた3人の村人の実名と年齢、そして猫又の大きさまで記録されていました。そして、猫又と対峙した伝説の名刀は、上越市立歴史博物館に所蔵されています。この地では、さまざまな遺物が猫又の存在を今に伝えているのです。

開祖宮崎家に残された古文書「猫又絶治実記」を開いてみると、猫又の記録が現代によみがえります。前回に引き続き、その古文書に描かれた内容を紹介します。

写真:気比神社

写真:猫又絶治実記

猫又絶治実記(ねこまたたいじじっき)

前回のあらすじ

3人の村人が得体のしれない獣に襲われて絶命します。庄屋の平左エ門が代官所へ嘆願書を提出したところ、計1077名による獣討伐がはじまりました。産土神の力を借りて猫又を見つけて取り囲むも、黒々とした巨体の獣を前に立ち迎えるものはいませんでした――。

猫又絶治実記の記録(後編)

この状況を覆すべく白羽の矢が立てられたのは、病に伏せていた牛木吉十郎でした。吉十郎は平左エ門の訴えを一度は断ったものの、懇願を受け入れて、女房に次のように伝えました。

「すまぬが昼飯の支度をしてくれ。あの獣に立ち向かえば俺は必ず死ぬだろう。そのような覚悟がなければ倒せない妖魔なのだ。そうであるなら何をおいても初物を食べてから行きたい」

吉十郎は紬単物を召して、上杉謙信より下された家宝の名剣「青井下坂(葵紋・越前国住下坂)」を身に着けると、手槍を持ちました。その後、大神宮へ礼拝を成し、仏壇へ向かって先祖へ礼拝しました。この時に吉十郎が祈願した大神宮こそ気比神社と言い伝えられています。

写真:葵紋・越前国住下坂(青井下坂)(上越市立歴史博物館所蔵)

吉十郎は身丈5尺8寸(約176㎝)、年齢43歳の大男でした。獣のもとへ着くと、役人や足軽に「助太刀願う」と伝えて獣へと走り出しました。

「おのれは元来、悪生の者! 大切なる人々をあまた喰らう。その天罰によってこのたび討ち取べしという上意こうむりまかり向いたり。その場を引くな!」

しかし、吉十郎が手槍を突き出すも、あっけなく真っ二つに折れてしまいます。吉十郎が近くの大木へ這い上ると、獣はすかさず追いかけて飛び上がります。吉十郎は渾身の力で獣を蹴り落としますが、獣はより高く飛びあがって吉十郎を襲いました。両者は「がっ」と組み合い、地面に墜落します。

「者ども寄れや! 者ども!」と叫んでも、誰一人として助太刀する者はいません。

吉十郎が獣の背に打ち乗ると、獣は振り落とそうと狂ったように走りまわります。とうとう獣が吉十郎の大腿に喰らいつくと、吉十郎は為す術なく背中から転げ落ちました。その時、勢子たちが大声で「刀を抜け!」と叫びます。

この声を聞き、吉十郎は「青井下坂」を抜き放ちました。

写真:葵紋・越前国住下坂(青井下坂)(上越市立歴史博物館所蔵)

吉十郎は渾身の力で獣に太刀を突き刺しました。最後の金剛力を振り絞り、何太刀も獣を突き刺します。弱り果てた獣は飛び退き、両者は睨み合ったまま動きません。
やがて、ゆっくりと吉十郎が崩れ落ち、絶命しました。獣も四足で立ったまま微動だにせず、翌々日にその死亡が確認されました。吉十郎は命を賭し、この大獣を退治したのです。

同年6月10日、獣の死骸を高田城下まで運ぶ折に中ノ俣村で計測がなされました。頭より尾のつけ根まで(頭胴長)が九尺四寸(約282㎝)、胴囲8尺5寸(約255㎝)、頭の長さ2尺5寸(約75㎝)、両耳の間壱尺1尺6寸(約48㎝)、太股周り2尺8寸(約84㎝)、足の長さ2尺5寸(約75㎝)。毛色は黒、毛の長さ5寸(約15㎝)、爪5寸(約15㎝)、鼻より耳まで1尺4寸(約42㎝)、口の広さ1尺6寸(約48㎝)眼は2寸(約6㎝)、牙は上下8寸(約24㎝)。歯組は熊のごとく、前足の骸(むくろ)は膝に砂が塗り込まれ、刃物が役に立たないようになっており、角は無い、と記録されました。

写真:猫又計測図(センチメートルで再現したもの)

猫に似ており、尾の先が2つに割れていることから、この獣は群役人によって猫又と称されました。そして、江戸の御検使役人である原喜右エ門によっても検分され、獣は猫又と認められました。それ以来、この獣を猫又と言い伝えることになったのです。

猫又の死骸は代官である岡登治郎兵衛の屋敷裏に埋められ、この場所は猫塚と呼ばれるようになりました。現在は土橋稲荷神社(上越市大町)となり、猫又を奉っています。

現在、吉十郎の食べた初物の瓢(ひさご、夕顔)はこの地方の縁起物として伝えられています。また、近年ではこの伝承をもとにした劇が再現され、春祭りを盛り上げているといいます。

気比神社

新潟県上越市中ノ俣223

[参考文献]
・伊丹末雄著『猫又絶治実記』, 1997年(編集・製本:田嶋力)

【執筆】
岩崎永治(いわざき・えいじ)
1983年群馬県生まれ。博士(獣医学)、一般社団法人日本ペット栄養学会代議員。日本ペットフード株式会社研究開発第2部研究学術課所属。同社に就職後、イリノイ大学アニマルサイエンス学科へ2度にわたって留学、日本獣医生命科学大学大学院研究生を経て博士号を取得。専門は猫の栄養学。「かわいいだけじゃない猫」を伝えることを信条に掲げ、日本猫のルーツを探求している。〈和猫研究所〉を立ち上げ、ツイッターなどで各地の猫にまつわる情報を発信している。著書に『和猫のあしあと 東京の猫伝説をたどる』(緑書房)、『猫はなぜごはんに飽きるのか? 猫ごはん博士が教える「おいしさ」の秘密』(集英社)。2023年7月に「和猫研究所~獣医学博士による和猫の食・住・歴史の情報サイト~」(https://www.wanekolab.com/)を開設。
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