猫好きさんにおすすめスポット【第9回】新潟:土橋稲荷神社「猫又絶治実記の終焉」

中ノ俣の猫又伝説を今に伝える最後の地、土橋稲荷神社。気比神社の「猫又伝説」(参照:第6回第7回)で、牛木吉十郎は命と引き換えに猫又を討ち取りました。しかし、物語はキレイには終わりません。猫又を供養するまでには、人の生臭い欲がうずまく記録が残されています。この世で恐れるべきなのは、荒ぶる獣ではなく人の欲なのかもしれません。

写真:土橋稲荷神社

猫又絶治実記(ねこまたたいじじっき)

気比神社の「猫又伝説」のあらすじ

あるとき、3人の村人が得体のしれない獣に襲われて絶命します。庄屋の平左エ門が代官所へ嘆願書を提出したところ、獣討伐のために足軽50名による足軽隊が組織されました。加えて桑取谷中や中ノ俣村から村人が招集され、計1077名による獣討伐が始まります。そして、産土神の力を借りて猫又を見つけて取り囲んだものの、黒々とした巨体の獣を前に立ち向かう者はいませんでした。

そこで、百姓の牛木吉十郎に白羽の矢が立てられました。吉十郎は家宝の名剣「青井下坂」を腰に据え、気比神社へ礼拝をすると、獣の元へ向かいます。着くと、そこには足軽や村人たちに取り囲まれた獣がいました。吉十郎は獣と対峙します。足軽に助太刀を願うものの聞き入れられず、孤軍奮闘の末、とうとう獣に青井下坂を突き刺しました。しかし、獣から受けた怪我で、自らもその命を落とすのでした――。

猫又絶治実記の終焉

写真:猫又絶治実記

吉十郎は激しい戦いの末に、名刀「青井下坂」で猫又を貫きましたが、猫又と相討ちとなります。猫又は絶命してからも四つ足で立ちつづけており、目を開いたまま微動だにしません。夕暮れということもあり、周りからは死んでいるのか生きているのか判断できませんでした。近づくことも恐ろしく、倒れた吉十郎の亡骸を回収できないまま、周りの者たちは村に帰ります。

翌々日に猫又が倒れ、ようやく吉十郎の亡骸が女房に引き渡されました。女房は亡骸にすがりつき、居並ぶ者に叫びます。

「なんと、はかない姿になってしまったのか。他の者は怪我一つ見て取れぬ。口惜しや! 皆の衆、我が夫ばかりを討死させるとは……。自分可愛さで何もしない強欲な役人衆、どういうことだ! その臆病な立ち振る舞い、ただの1人も助太刀する人がいなかったとは!」

女房は親族に慰められ、しめやかに吉十郎の葬儀が執り行われました。吉十郎の大力無双の活躍は褒めたたえられ、その死を惜しまない者はいませんでした。

その後に、庄屋の平左エ門の立会いの下、足軽を取りまとめた郡役人による見聞が行われ、正式に獣を猫又として報告することとなりました。問題はそのあとです。なんと、この郡役人が平左エ門に、吉十郎の手柄を横取りする提案をもちかけたのです。

「我々は獣を討ち取る命令の下、50人の足軽を率いてきたが、吉十郎のみで討ち取ってしまった。我々が何も手を下さずに帰ったことが知られては、上からのお咎めが恐ろしい。皆々様、この獣を吉十郎が討ち果たしたことを隠して、どうか足軽隊が木の芽坂にて討ち果たしたことにしてはくれまいか。我々を助けると思って、そなたらが書く口上書にはそのように記してほしい」

平左エ門は「吉十郎の恩を忘れることはできない」と断わりますが、足軽たちが切腹などの重い処罰を受けてしまうかもしれないという言葉に気まずくなり、承諾してしまいます。足軽たちはこれに喜んで帰っていきました。

しかしこの結果、高田城下に口上書が事実と異なることを訴える者たちが現れ、代官所に訴状が提出されます。足軽たちは平左エ門の口上書を盾に訴えを退けようとしますが、代官所の調査により真実が明らかとなりました。その後、足軽たちには江戸役人から「不届き至極」との裁定が下り、不正を働いた者たちは流浪の身となり果てたのでした。

一方の吉十郎は、百姓でありながら1人で多くの人々のために立ち向かったことが評価され、女房に弔金として小判3枚が与えられました。村から江戸へ来た訴人へは、岡登治郎兵衛の女房から法事金として銀10枚と米2石が与えられ、村人たちは感謝して帰路につきました。

なお、平左エ門の口上書は1683年(天和3年)6月12日の日付で現存しています。

猫又稲荷

『猫又絶治実記』には、中ノ俣で退治された猫又の死骸が、代官であった岡登治郎兵衛の屋敷裏(現在の土橋稲荷神社)に埋められたことが記述されています。この場所は、現在では「玄蕃長屋」や「猫塚」などと呼ばれています。

猫又を埋めた場所には、弘化年間(1845~1848年)に榎の木(別名「ヨノミ木」)が植えられました。しかし、その木は160年余りで枯れてしまい、次に松の木が植えられます。現在はその松も枯れ、切り株を残すのみです。

写真:切り株の跡

人々は猫又の祟りを恐れ、猫又を埋葬した地に稲荷を建てて供養しました。そしていつしか、この稲荷は「猫又稲荷」と呼ばれて地域の人々に親しまれるようになりました。土橋稲荷神社では毎年6月5~6日に祭礼が催されますが、猫又の退治された6月7日と日が近いことは偶然ではないでしょう。

土橋稲荷神社の遍歴

土橋稲荷神社は、高田城へ至る3本の道のひとつ、土橋口にかかる南土橋のたもとにあります。

具体的な建立年代は不明ですが、一説には四国の波切稲荷の分霊を奉ったという言い伝えがあります。また、1990年の『神社明細帳』によれば、1776年(安永5年)に土橋の産土神が祀られている馬塚新田の稲荷神社(上越市南本町)を分霊して創立したとのことです。馬塚新田の稲荷神社は1675年(延宝3年)に創立されており、氏子が当地に移転するのに伴ってこの地に勧請したと伝えられています。

土橋稲荷神社

新潟県上越市大町1-3-33

[参考文献]
・伊丹末雄著『猫又絶治実記』1997年(編集・製本:田嶋力)
・長岡市史編集委員会中世史部会編『長岡のお宮 : 明治16年神社明細帳』1990年(長岡市)

【執筆】
岩崎永治(いわざき・えいじ)
1983年群馬県生まれ。博士(獣医学)、一般社団法人日本ペット栄養学会代議員。日本ペットフード株式会社研究開発第2部研究学術課所属。同社に就職後、イリノイ大学アニマルサイエンス学科へ2度にわたって留学、日本獣医生命科学大学大学院研究生を経て博士号を取得。専門は猫の栄養学。「かわいいだけじゃない猫」を伝えることを信条に掲げ、日本猫のルーツを探求している。〈和猫研究所〉を立ち上げ、ツイッターなどで各地の猫にまつわる情報を発信している。著書に『和猫のあしあと 東京の猫伝説をたどる』(緑書房)、『猫はなぜごはんに飽きるのか? 猫ごはん博士が教える「おいしさ」の秘密』(集英社)。2023年7月に「和猫研究所~獣医学博士による和猫の食・住・歴史の情報サイト~」(https://www.wanekolab.com/)を開設。
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