獣医大生が「魔物」に挑む
獣医大生が大自然に生きる海獣の姿に魅了され、中退してでもその生態調査や保護活動に身を投じてしまったというお話から始まり、第13回、第14回と海獣に関する研究のお話を続けてきました。
正確には、その寄生虫についてでしたね。海獣の研究と聞いて、雄大に海を泳ぐ海獣類との触れ合いを想像された方がいらっしゃったら申し訳ありません。これまでお話しした寄生虫は、いずれも腐臭漂う海獣の死体を調べて得たものです。そして、これらの調査を行ったのは、獣医大に踏みとどまった学生たちでした。
授業で忙しい彼女たちを頻繁に座礁現場に連れて行くわけにもいきませんので、体長2~3mの個体であれば、大学に運んで調査を行っていました。残念ながら、そうなるとハクジラ類(歯クジラ)や鰭脚類(アザラシ・アシカの仲間)が中心となり、先に触れたコククジラのようなヒゲクジラ類は諦めざるを得ません。
ハクジラ類と聞くと、水族館の人気者であるかわいいイルカを思い浮かべて、簡単そうだと思われる方もいるかもしれませんね。しかし、実際はどうでしょうか。今回は、その一部をお見せし、この「魔物」に接した学生たちの姿をご覧いただいて、海獣編を締めくくります。
幼クジラでも運び込むのに一苦労
前述の通り、小さめの(と言っても十分大きいですが)海獣たちの死体は拠点施設となる野生動物医学センター(WAMC;2004~2023年)に運び込まれ、調査されます。写真1の吊り下げられた個体をご覧下さい。藁打ち(ワラ叩き)用の小槌(こづち)に似ていることから名付けられたのが、このツチクジラ(アカボウクジラ科)です。確かに、画面右方を向く顔の様子は、小槌を彷彿とさせますね。
この種は大型ハクジラ類で、沿岸小型捕鯨の対象とされますが、この個体は幼体でした。冬の石狩沖は荒れるので、母親から離れたのでしょう。ただし、幼いとはいっても体重は1トン近くあり、トラックの荷台にクレーンが搭載された特殊な車両をレンタカー会社から借りなければなりませんでした。当然お金がかかりますから、文科省や環境省などの研究費が必要です。また、こういった重機を操作する技術も必要です。
もちろん、競争予算は厳しい審査を受けるので100パーセント得ることは確約されませんし、審査を通過したとしても足りないかもしれません。しかし、そのような事情とは無関係に野生動物事案は発生します。たとえば、このツチクジラの一件から2か月後、オウギハクジラ(アカボウクジラ科)が同じ石狩湾沿岸に座礁しました(写真3)。
このときはかなり無理を言って、無料で使える大学所有の家畜運搬用トラックを借り出しました(写真5)。
これらの写真では頭部が破損して見難いですが、下顎に一対の歯があり、これがこのクジラの特徴です。
熱き学生たち
さて、これらはWAMCの入院室兼サンプリング室(写真1の左背後にある平屋建物でシャッターが開放された状態のスペース)に運び込まれました。ツチクジラのときは幸い厳冬期でしたので、悪臭対策をしなくて済んだのが救いでした。もっとも「対策」とはいっても、臭いが防げるわけではなく、周辺施設の関係者へ事前に、かつ丁寧に、とんでもない臭気が漂うことを一斉に予告するだけです。迷惑をかけると公用車が借りられないかもしれませんので、抜かりなくしっかりと行わなければなりません。
次の懸案はマンパワーの確保です。海獣類の巨体に対する採材作業は、ゼミ生だけでは手が足りませんから、あらかじめボランティアの募集をしていました。ゼミ生以外はもちろん、顧問をしていた公認サークル<野生動物生態研究会>や学外の学生さんなどにも情報を流して、人手不足を防いでいました。
ボランティアの皆さんは怪我や感染などに対する最大限の注意をしながらも、よくやってくれました。感謝しかありません。ですので、多少「おだって」いたのは見ないことにしていました(「おだる」とは北海道弁で調子に乗ることです)。とはいえ、ここ3~4年で急激に厳しくなったバイオセーフティー体制下では、この様なことはあり得ないでしょうね。
<クジラ軍団>出陣!
医動物学ユニットを希望するゼミ生の卒論研究対象には、将来の希望職域と関連したゆるやかな傾向があるようです。例えば、爬虫類を研究する学生はエキゾチックペットの臨床、鳥類ならペットバードの臨床、様々な陸棲哺乳類なら動物園、そして海獣なら水族館を目指す傾向があります。特に2000年代中頃から2010年代にかけて、海獣を研究対象とするゼミ生が続きました。本連載の第13回(海獣編その1)で紹介した田島先生(国立科学博物館)やストランディングネットワーク北海道、また東京農業大学オホーツク校などの方々にWAMCが認知されたことが功を奏し、海獣がWAMCに運ばれる機会が増えました。
これらの情報は担当授業でも伝えられ、酪農学園大学の学生たちの選択肢が広がったことが理解されたようです。本学は畜産系大学であるため、当初は海獣研究を諦めていた学生も多かったのですが、この変化は彼らにとって新たな可能性を開いたのかもしれません。そのため、海獣担当のゼミ生と、WAMCへの配属を希望したものの選に漏れた熱心な友人たちは、強い団結力を持って採材作業に取り組んでいました。そんな姿を見て、私は彼女たちを<クジラ軍団>と呼んでいました。
なお、大型の海獣の死体を床に置いての長時間の作業は体力的に厳しいため、イシイルカ(ネズミイルカ科;写真6,7)やカマイルカ(マイルカ科;写真8,9,10)のような、比較的小さい個体は診察台兼解剖台の上に載せて作業することにしていたようです。
比較的小さいとはいっても数十~300キログラム程度の巨体ですから、どうなることかと思いましたが、学生たちは協力して効率的に作業を進めていました。
実物からしか味わえない発見の数々
座礁や混獲で頻繁に見られるイシイルカやカマイルカが、WAMCにも運ばれてきたことで、私たちは教育・啓発活動の絶好の機会を得ることができました。例えば、これらの海獣の複胃、非対称頭部、そしてエコーロケーションに使われるメロン体(頭部前方の音波を集束する脂肪組織)などの特徴は、実物を見ることでしか得られない学びがあります(写真11,12,13)
WAMCが北海道に位置するため、西日本で最も座礁例が多いスナメリ(ネズミイルカ科)の標本がないことが課題でした。というのも、酪農学園大学には全国から学生が集まっており、西日本出身者も多いからです。しかし、この問題は西日本の水族館に勤務するWAMCの卒業生の協力で解決されました(写真14)。
これまで主にクジラ類を取り上げてきましたが、もちろん他の海獣も研究対象です。例えば、北海道道東地方で水産資源保護のため有害捕獲されたゴマフアザラシの採材の様子も記録しています(写真15,16)。
本連載の第14回(海獣編その2)で紹介した寄生虫の知見は、こういった多様な材料から得られたものです。これらの貴重な機会を無駄にしないように、私たちは細心の注意を払って研究を進めています。
知床で流氷に閉じ込められたシャチ
同じく以前の連載関連では第13回(海獣編その1)の末尾でシャチについて触れました。この海獣で思い出されるのが、2005年2月、知床半島沿岸(相泊港)で流氷に閉じ込められ死んだシャチたちのことです。
そのうち1個体がWAMCへ運ばれ、日夜ズンドウ鍋で煮られ、骨格標本が作製されました。当時、酪農大の環境システム学部にいらした大泰司紀之教授(北海道大学名誉教授)がボランティアの学生を募集し、対応しておりました。その労苦の結晶が、今でも環境システム学部の実習室に設置されています。あの時は、設置場所が獣医学部(学群)ではないことに複雑な思いでしたが、WAMCがなくなった今となっては、正解であったと思います。
また、この個体群の検査でも科博が采配をふるっておられ、当方には内部寄生虫の分析を担わせて頂きました。その結果は、他の情報含めIWC Scientific Committee. Anchorage, AK, May 2007. (SC/59/SM12)という媒体で紹介されております。しかし、皆さんが簡単にご覧になるのは難しいと思い、以下の解説を上梓しました。
木村優樹・浅川満彦, 2020. 知床半島で斃死したシャチ(Orcinus orca)における獣医学関連の分析概要-国際捕鯨委員会資料から. 北獣会誌, 64: 379-381.
これは、現在、酪農大のリポジトリでそのpdfは入手可能です(もちろん無料です)。
加えて、嬉しいことに東京大学出版会から『シャチ-オルカ研究全史(水口博也 著)』が刊行されました。コンパクトな本体ながらも関連情報はほぼ全て網羅され、先程のIWCのレポートも引用されていましたのでその178頁をご覧下さい。
さらに、この連載でも何度か紹介した『ラストカルテ 全10巻(浅山わかび 著)』(小学館)でも、この知床におけるシャチの悲劇をモチーフにした作品も第9巻後半にございます。こちらも是非。
さて、海獣編は、ひとまずここまでとし、次回は愛玩動物看護学領域における野生動物医学を紹介しようと思います。私は2017年から2019年、愛玩動物看護師を養成する学科(学類)に出向し、そちらで寄生虫病学と野生動物医学を担当しました。特に、野生の方は、獣医と異なり愛玩動物看護師国家試験でしっかり出題されます。そのため、来年で3回目となる国家試験の勉強にも役立つかも? しれません。
【執筆者】
浅川満彦(あさかわ・みつひこ)
1959年山梨県生まれ。酪農学園大学教授、獣医師、博士(獣医学)。日本野生動物医学会認定専門医。野生動物の死と向き合うF・VETSの会代表。おもな研究テーマは、獣医学領域における寄生虫病と他感染症、野生動物医学。主著(近刊)に『野生動物医学への挑戦 ―寄生虫・感染症・ワンヘルス』(東京大学出版会)、『野生動物の法獣医学』(地人書館)、『図説 世界の吸血動物』(監修、グラフィック社)、『野生動物のロードキル』(分担執筆、東京大学出版会)など。
【編集協力】
いわさきはるか
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