ラクダは、そのほとんどが家畜として人に飼育されています。そのうちヒトコブラクダは、アフリカ北部からアラビア半島、アジアの一部にかけて広がっています。一方でフタコブラクダは、アジア内陸部を中心として分布しています。フタコブラクダの場合、野生種がタクラマカン砂漠からゴビ砂漠の一部に生息していますが、数は少なく絶滅危惧種に認定されています。
今回は、ラクダと日本人とのかかわりの歴史を、これまでの調査研究や史料を中心に紹介していきます。
日本で最初にラクダを見たのは?
「日本書紀」という歴史書によると、ラクダを日本にもたらしたのは、朝鮮半島にあった国々でした。日本初の女帝・推古天皇が在位した599(推古7)年、百済という国からロバ・ヒツジ・シロキジと共に、ラクダ1頭が贈られました。これが、日本でラクダが確認できる最初の史料となります。

その後618(推古26)年に、高句麗という国からラクダ1頭が献上されました。また657(斉明3)年、百済へ派遣されていた日本の使節団が帰国する際、ラクダ1頭・ロバ2頭を持ち帰ってきました。これは、2人目の女性天皇・斉明天皇の時のことです。679(天武8)年には、朝鮮半島を統一した新羅という国から使節団が来航し、ウマ・イヌ・ラクダなどを進上しました。日本にやってきたラクダを含めた動物たちがどうなったのか記録が無いため不明ですが、天皇が儀礼などを行う庭園で飼育された可能性も考えられます。
実は、日本へラクダを献上した百済・高句麗・新羅という国々に、ラクダは生息していません。おそらく中国との外交や交易などによって手に入れ、日本へもたらされたと考えられます。
11世紀後半に日本から中国へ渡った僧が、フタコブラクダを見たことを日記に記録しています。中国で見られるラクダの多くはフタコブラクダと思われますが、日本に渡来したラクダはどちらであったのか定かではありません。戦前の調査で、当時の耳成村(奈良県橿原市)にあった池底からラクダの臼歯が見つかったようですが、現在その保管場所は不明となっています。
徳川将軍が見たラクダ
奈良時代以降、ラクダが日本へ来たこと示す確実な記録は無いようですが、江戸時代の史料には再び登場します。1646(正保3)年12月、ヒクイドリ1羽や白いオウム2羽などと共にラクダ2頭が、江戸幕府3代将軍徳川家光のもとへ献上されました。当時、幕府と海外貿易をしていたオランダの貿易船で輸送されたラクダは、長崎の出島に陸揚げされ、長崎から大坂までは海路で、大坂からは陸路・東海道を通って江戸まで輸送されました。

この詳細を記した史料は日本には無く、貿易をおこなっていたオランダ東インド会社のオランダ商館長(日本支店長)の公務日記などから確認できます。これはオランダ語で書かれていますが、『日本関係海外史料 オランダ商館長日記』(東京大学出版会)として原文・訳文が刊行され、東京大学史料編纂所やオランダ国立中央文書館で、デジタル画像が公開されています。
『オランダ商館長日記』によると、ラクダはオランダ商館長が将軍へ拝礼をおこなうため、ヒクイドリやオウムなど他の献上品と一緒に江戸へ向かいました。ただ、ラクダは東海道・石薬師宿(三重県鈴鹿市)に着いた時には体調が悪かったようで、馬医者が呼ばれたことが記述されています。ラクダには寒さ除けの布製品が大坂で購入されているので、道中の寒気が影響したのかもしれません。寒さが体調不良に影響したのであれば、この時のラクダはヒトコブラクダの可能性もありますが、実際のところは不明です。
その後、ラクダは桑名宿(三重県桑名市)から宮宿(愛知県名古屋市)を船で渡り、さらに東へ向かっていきましたが、赤坂宿(愛知県豊川市)で歩行の疲労と病気のため1日留まることになりました。商館長一行がラクダを置いて先に進み江尻宿(静岡県静岡市)で滞在していた時に、ラクダは元気になって新居宿(静岡県湖西市)まで到着し、無理をしない範囲で進んでくるという知らせが入りました。ラクダは無事に江戸へ到着し、将軍・家光へ拝礼する商館長たちと一緒に登城しました。江戸城へ登城していた大名たちにもラクダは人気となり、徳川家綱(のちの江戸幕府4代将軍)に大変喜ばれたと、『オランダ商館長日記』に記録が残されています。
献上を断られたラクダ
19世紀に入ると、ラクダは度々やってきます。1803(享和3)年にアメリカ人船長の船が、献上品としてフタコブラクダを運んできましたが、幕府側が拒否し積み戻されています。1821(文政4)年には、オランダの貿易船が幕府への献上品としてアラビア産のヒトコブラクダ2頭を運んできましたが、これも断られて長崎の商人に売却され、見世物興行師の手に渡りました。このラクダは、1823(文政6)年からおおよそ10年以上、日本全国を巡りました。これが、多くの人びとが生きているラクダを目にした初の機会になったと考えられます。
1823(文政6)年7月、ラクダ2頭の初めての興行が大坂で催され、当初から人々の関心を誘っていたため大盛況でした。ラクダはその後、京都や紀伊国(和歌山県)・伊勢国(三重県)などで興行し、中山道を通って江戸へ向かったことが各地の史料から確認できます。その途中にあたる中山道伏見宿(岐阜県御嵩町)での出来事が、「伏見中町祭礼頭人記録」(『御嵩町史 通史編上』所収)に残されていました。

1824(文政7)年8月に伏見宿にラクダが現れると、あまりに珍しいいきものだったので、2日間で近隣の村から子どもを含めた老若男女、約2,200人余りがラクダを見物し、大賑わいとなったようです。また「伏見西町御日待帳」(『御嵩町史 史料編』所収)によると、見世物興行師のうち数人が病気で伏見宿の松屋に宿泊したこと、長持(衣類や調度品、寝具などを収納する木箱)に入れた荷物が善師野村(愛知県犬山市)から輸送された際、その料金をめぐるトラブルが発生したことが記されています。この記述から、ラクダは名古屋から小牧(愛知県小牧市)、善師野(愛知県犬山市)を通り中山道へ合流する木曽街道(上街道)を使って伏見宿に到着したと思われ、その経路にあたる村や町でも興行をしていた可能性があります。
ヒトコブラクダが名古屋へやってきた
1824(文政7)年閏8月、ラクダは江戸へ到着し両国広小路(東京都中央区)で見世物となり大盛況を博し、浮世絵や書籍などのラクダに関する出版物が刊行されました。興行は翌年春まで続き、その後は北陸を巡行し、中山道を通って1826(文政9)年11月、名古屋・大須観音の門前でラクダが見世物となりました。その詳細は尾張藩士の高力猿猴庵(高力種信)がまとめた「絵本駱駝具誌」や「寛政文政間日記」という史料によって確認できます。

見物人は、見世物小屋内の一段高い客席からラクダを見ることができ、中にはラクダの毛が疱瘡(天然痘)やはしかといった流行病の守りになるという宣伝文が書かれ、ラクダを描いた広告(チラシ)が売られていました。ラクダの登場時は、外国風の衣装を着た興行人が付き添い、背中には布が掛けられていました。観客の前でこの布を取ってラクダのこぶに注目をさせ、大根やサツマイモを食べるラクダの姿を見せたりしました。最後は、興行人の1人がラクダの前で太鼓をたたき、ほかの興行人が三味線などを奏でるなか、もう1人がラクダの背に乗り横笛を吹きながら会場を一周して退場しました。
この名古屋でのヒトコブラクダの興行は、見物人が群集し大盛況に終わりました。江戸時代では、現在とは異なり珍しい動物に疫病除けなどの御利益があるとされ、その効果にあやかろうと多くに人々が集まりました。ただ、広告には「ハルシヤ(ペルシャ:イランの旧称)国産」としてフタコブラクダの絵が印刷され、見世物小屋入口にも「天竺はるしや国渡りらくだ」という幟が立てられ、ペルシャ産のフタコブラクダという宣伝となっていました。途中までは、アラビア産と明記したヒトコブラクダの絵が載せられた広告が発行されていましたが、いつからかペルシャ産へと変わり、その広告を手にした道中の人びともヒトコブラクダをペルシャ産と誤解していったようです。

「絵本駱駝具誌」作者の高力猿猴庵や、江戸で出版された浮世絵の説明書きを書いた山東京山は、江戸で刊行されたラクダに関する出版物などの最新情報から、ヒトコブラクダはアラビア産という認識に至っています。このころの動物見世物では、ヒョウの見世物をトラとして、ヒクイドリをダチョウとして紹介していたことが確認されています。これは興行人が、少しでも多くの人が来るように仕掛けた誇大広告であった可能性も考えられます。幕末には、本物のフタコブラクダが全国を巡ったようですが、まだ詳細はわかっていません。

[参考文献」
・今村薫編『ラクダ、苛烈な自然で人と生きる 進化、生態、共生』風響社、2023年
・磯野直秀著『日本博物誌総合年表 索引・資料編』平凡社、2012年
・梶島孝雄著『資料 日本動物史』八坂書房、1997年
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・山崎健「研究余録 飛鳥・奈良時代の舶来珍獣」、『文化財論叢Ⅳ 奈良文化財研究所創立60周年記念論文集 奈良文化財研究所学報第92冊』、2012年
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・国立国会図書館・電子展示会「描かれた動物・植物―江戸時代の博物誌―」2024年、https://www.ndl.go.jp/nature、2026年7月2日最終閲覧
・岡勝谷画『象及駱駝之図』[写]、文久3(1863)年、国立国会図書館デジタルコレクション、https://dl.ndl.go.jp/pid/8929265、2026年7月2日最終閲覧
【執筆】
中尾 喜代美(なかお・きよみ)
愛知県生まれ。愛知大学綜合郷土研究所研究員。愛知大学文学部卒業、名古屋大学大学院文学研究科修了(歴史学修士)。愛知県内で自治体史編さん事業に携わり、その後、岐阜大学地域科学部地域資料・情報センターで、同大教育学部附属郷土博物館に所蔵された古文書の目録作成や史料紹介に従事。岐阜県内を中心に古文書講座や講演会をおこなう。『岐阜大学教育学部郷土博物館収蔵史料目録』(1)~(10)・『岐阜大学地域科学部地域資料・情報センター 地域史料通信』創刊号~11号の編集・執筆。楠田哲士編著『神の鳥ライチョウの生態と保全』で「江戸時代のライチョウの捕獲と献上」を執筆。
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