野生動物の法獣医学と野生動物医学の現状【第36回】明治の法獣医学は平成・令和でどう変わった?(前編)

本連載では、ここ数回で古生代から縄文時代、さらには数十年前の戦争まで、長大な時間における法獣医学を紹介してきました。昔のことばかりで飽き飽きしているかもしれませんが、もう少しお付き合いください。

本連載も終盤に迫り、野生に限らず、動物全般の法獣医学誕生の背景を獣医療史から確認すべきだと感じたからです。

繰り返される自然環境への悪影響

さて、野生動物医学とその一領域「法獣医学」、さらにその背景の獣医学は、今を生きる人々の実学です。そして、現代人はコロナやハンタ、エボラなど、次々に襲来する感染症に悩まされています。それは、長い年月をかけて生じた宿主と寄生体の相互の最適化(進化)によって、野生動物の生息域である自然環境が乱れ、破綻した結果の1つとされます。

もっとも、その被害を受けるのが、かく乱した当事者=人間と、共に生きる飼育動物です。
そして、その場限りだけの対応だけをしては、失敗し続けるわけです。

保全医学では、まず変わりゆく自然の背景を楽しむ

本連載第29~34回では、主題である「野生動物の法獣医学」へ切り込み、感染症を自然現象の1つとして捉えました。

少しだけ振り返ると、第29回では太古の巨大陸塊パンゲアから古/中生代にユーラシアやアフリカ大陸などが分離し、各地の獣類(と病原体)が長い時間の中でどのように変わっていったのかを見ていきました。

そして、連載第31~35回目では、土器石器の専門家から、遺跡から出土された獣類骨や歯の鑑定依頼を受けた話、人の事件現場で毛髪(獣毛)鑑定を頼まれた話、昭和(第二次世界大戦時)の動物虐待や令和(現在)の保険金詐欺・強盗事件等の捜査に協力した話などを紹介しました。

時間的スケールは様々ですが、これらの回で「野生動物の法獣医学」の理論・技術が、現在を生きる私たちの暮らしに関わっていることを示しました。

いまだ「進化旅行」は道半ば

自然環境や動物がたどってきた歴史を、人と動物の関係性の理解に導入する姿勢は、その場限りではない感染症への本質的な向き合い方として大切です。
なので、私はこれを「進化旅行」と名付けました(浅川・村田著、『君たちの保全医学―地球環境を守るために知り・学び・変わる』、文永堂、2026年)。
旅行という響きは、何だかワクワクしませんか? 多くの人々が未来の感染症やアウトブレイク(大流行)に備えるには、少しでも注目してもらうことが肝要です。

そして、大切なので繰り返します。野生動物医学という「獣医学に軸足を置く保全医学」には、悠久の時間の中で複雑・最適化した人間を含むいきもの同士の関係性を解きほぐし、世界で繰り広げられる事象の歴史を探る視点が必要です。実際、私の研究もそのような追求をしてきました。

日露戦争時生まれの法獣医学は国防のため

「法獣医学」自体の歴史も探ってみましょう。

言葉としての「法獣医学」は、明治時代の獣医師養成教本上にはじめて登場しました(図1、およびこれを紹介した下の文献を参照)。

図1.明治時代に発刊された獣医師養成用教本表紙(右)と、収載された章「法獣医学」の冒頭頁(左)(徳宮・浅川、2022より改変)

徳宮和音・浅川満彦、明治期の「法獣医学」について:北獣会誌、66:169-171 (2022)
https://cir.nii.ac.jp/crid/1050855422577062016

この時期、日本は日露戦争直前。結局、この戦いで辛勝し、列強による支配を防ぎました。法獣医学は、このようなギリギリな状態の時に提唱されたのです。
富国強兵の大号令のもと、健康な体躯の兵士育成のため、乳肉を扱う業者が増えました。しかし、品質に問題のあるモノを提供する業者があまりにも多く、当然、粗悪な食品は人々の健康に悪影響を及ぼします。そうなると、兵士不足となり、戦力は低下します。つまり、衛生問題は国家存亡の危機と見なされました。

健全な乳肉生産・供給のため警察獣医も誕生

健全な乳肉の生産・供給は独立国家としての生命線であり、厳格な規定や実力行使を行う仕組みが不可欠でした。国家権力が介在することになりますが、公正な科学的根拠が必要となり、結果、「法獣医学」が提唱されました。大正時代には、取り締まりのための専門職域「警察獣医」(獣医課)が警視庁や各自治体に設けられました。ただし、この仕組みはすぐに消えたので、

「警察獣医? なんかカッコいい響き!」

と思っても、今はありません。もし、近いところで活躍したいのであれば、公衆/家畜衛生分野などの公務員獣医職を目指しましょう。

欧米の「法獣医学」がやってきた

平成・令和になり、動物福祉・愛護精神が隆盛を極めます。これに歩調をあわせる形で、前世紀に欧米で誕生した”forensic veterinary medicine”の概念が直輸入されました。日本では起こり得なかった概念です。
ならば、これに対応する和製漢語が希求されました。法医学や犯罪科学等を意味する”forensic”を直訳し、獣医学”veterinary medicine”に接着させ「法獣医学」となりました。

そして、日本獣医生命科学大学の田中亜紀先生たちが日本に定着させていきました。この背景・経緯は、日本獣医師会誌の論文でも紹介されています(下の文献を参照)。
無論、そこには明治における安全な乳肉供給の性格は含みません。

中村進一・金谷咲愛・杉山晶彦、法獣医学の認知度と経験に関する実態調査、日獣会誌、79(2)、e21-e27、2026年
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jvma/79/2/79_e21/_article/-char/ja

明治生まれと平成・令和生まれのホモニム「法獣医学」

まとめると、乳肉衛生のための「法獣医学」が明治時代に生まれ、同じ熟語が動物愛護のため独立的に平成・令和に生まれました。
同じ字面でも意味が異なる言葉を同物異名(ホモニム)といい、動植物分類ではよく見られます。

それはともかく、「法獣医学」が和製漢語であった事実は、獣医学領域においても、福沢諭吉や西周のような西欧で発展した学問を、日本流に取り入れた巨大な碩学が存在したことを示します。この事実は誇らしいことです。
このことは、日本の獣医療/獣医学関係者と動物関連の職に就いている方々には、ぜひ知っておいて欲しいと思っています。

おわりに

「法獣医学」は明治時代に誕生し、食品/家畜(動物)衛生や公衆衛生実務を運用する実学でした。一方、平成・令和時代の「法獣医学」は、前世紀の動物福祉・愛護のための和製漢語として使用されています。
要するに、時代・目的を違えたホモニムであり、歴史的背景を理解した上で意識的に用いるのが望まれます。

「法獣医学」の歴史を正しく把握するには、広く、獣医療/獣医学全体の歴史を俯瞰する必要があります。そこで、次回後編では、そのような観点から眺める作業を続けたいと思います。

【執筆者】
浅川満彦(あさかわ・みつひこ)
1959年山梨県生まれ。酪農学園大学名誉教授、獣医師、野生動物医学専門職修士(UK)、博士(獣医学)、日本野生動物医学会認定専門医。野生動物の死と向き合うF・VETSの会代表として執筆・講演活動を行う。おもな研究テーマは、獣医学領域における寄生虫病と他感染症、野生動物医学。2026年5月に環境省自然環境局長賞受賞。主著『野生動物医学への挑戦 ―寄生虫・感染症・ワンヘルス』(東京大学出版会)、『野生動物の法獣医学』(地人書館)、『図説 世界の吸血動物』(監修、グラフィック社)、『野生動物のロードキル』(分担執筆、東京大学出版会)、『獣医さんがゆく―15歳からの獣医学』(東京大学出版会)、分担執筆分として『新獣医学辞典』、『犬の内科臨床Part2』、『神の鳥ライチョウの生態と保全』、『獣医学教育モデル・コア・カリキュラム準拠寄生虫病第3版』(以上、いずれも緑書房)、近刊として『 君たちの保全医学―地球環境を守るために知り・学び・変わる』(文永堂)

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