シカと聞いて日本中ほとんどの人が思い浮かべるであろう場所、奈良。
そんな奈良のシカですが、いつからそこにいるか知っていますか?
そもそも、奈良公園のシカはどのような存在なのでしょう。シカせんべいをもらっているから飼育されている? でも、柵の中にいるわけではないから野生動物?
あまりにも有名で、昔からそこにいるのが当たり前のように思える「奈良のシカ」。けれど、改めて考えてみると、私たちはその実態を意外なほど知りません。
この連載では、書籍『そのシカ、どこから来たと思います?』(兼子伸吾 著、緑書房、2026年)の一部を抜粋・再構成しながら、ニホンジカという動物の意外な姿を紐解いていきます。
第2回となる今回は、奈良のシカについて紹介します。
1,000年も孤立していた奈良のシカ
兼子伸吾)「奈良公園のシカは、少なくとも1,000年以上前……、おそらく1,400年ぐらい前から周囲のシカとほとんど交わらずにいたことがDNAからわかりました。」
岩﨑はるか)「1,400年前は平城京がつくられたころですよね。いきものにとって、1,000年以上も孤立しているってどれくらいすごいことなんですか?」
兼)「実は、DNAの変化という点で見ると、1,000年という時間そのものは、そこまで長いわけではないんです。」
岩)「え、そうなんですか?」
では、奈良のシカが1,000年以上も孤立してきたことの、何がそれほど特別なのでしょうか。

柵もないのに、1,000年?
奈良公園のシカは飼育動物ではなく、野生動物です。そして、シカというのは数十キロの距離を移動する個体も珍しくない動物です。奈良公園の周囲に柵などがあるわけではないため、当然周囲の山を行き来していると思われていました。
ところが、分析したところ、奈良公園のシカは、周囲地域のシカとは異なる独自のミトコンドリアDNAのタイプを持っていることがわかりました。この独自タイプは「S4」と呼ばれています。奈良時代以前には、この地域にはS4を含むさまざまなタイプのDNAをもつシカがいたはずです。しかし、平城京が造られるなど人の活動が盛んになった結果、奈良市周辺はシカにとって生きにくい環境になったのでしょう。きっと、狩猟の対象にもなったことでしょう。
その結果、奈良周辺にたくさんいたシカは姿を消しました。春日大社周辺で保護された現在の奈良公園のシカ達の祖先を除いては……。
そして、この祖先が独自のタイプをもっていて、1,000年以上もの間生き残り、周辺のシカとはあまり混ざっていないというのが、DNAの分析でわかったことです。春日大社や興福寺、東大寺ができたころから、孤立したまま世代を重ねてきたということになります。
人とともに歩んだ1,000年
奈良のシカは独自のミトコンドリアDNAのタイプを持つだけでなく、他のシカと異なるふるまいの特徴(生態的特徴)を持ち合わせています。最もわかりやすいのは「人を恐れないこと」でしょう。野生動物は、通常人間と目が合うだけで逃げるものがほとんどですが、奈良公園のシカは人を見ても逃げないどころか、近づいてくることさえあります。
もちろん、生態的特徴は他の個体の行動を学習して身につけることもありますが、性格のようなものは、遺伝的にある程度決まっていることもあります。奈良公園のシカらしさを特徴づける生態的特徴や遺伝的特徴の中には、人と暮らした1,000年間で培われたものもおそらくあるでしょう。
奈良公園のシカは、人がいつもそばにいる「環境」に順応した野生動物といえそうです。世界中を見渡しても、これほど人と近い場所で、人の影響を受けながら、1,000年以上も独自の系統を保ち続けてきた野生動物はほかに例がありません。
そもそも、ある場所からいきものがいなくなってしまう流れを、人の手で押しとどめることは簡単ではありません。それを1,000年以上も続けてきたという事実は、驚異的です。奈良公園のシカは、野生動物でありながら、奈良の歴史とともに歩んできた文化的な存在でもあるのです。
おわりに
今回は、奈良公園のシカについて紹介しました。柵のない場所で暮らす野生動物でありながら、人のそばで1,000年以上も独自の系統を保ち続けてきた奈良のシカ。その「特別さ」は、人とシカがともに歩んできた長い歴史の中にありました。
次回は、特別編。2026年3月に大阪の街を練り歩き、ニュースを騒がせた例のシカと奈良のシカの関係を、DNAから考察します!
本記事のように、シカのDNAを調べることで判明した驚きの事実とともに、シカといういきものの興味深さを語り尽くす一冊『そのシカ、どこから来たと思います?』は、2026年5月29日より全国の書店やネット書店などで販売されています。

【執筆者】
岩﨑はるか(いわさき・はるか)
サイエンスライター。専門家の言葉を、わかりやすく、かつ正確に伝えることを心掛けながら執筆している。
X:@iwasakiHar458
【監修】
兼子伸吾(かねこ・しんご)
DNAからいきものの過去と現在を読み解く研究者。福島大学共生システム理工学類教授。1978年静岡県磐田市生まれ。広島大学大学院国際協力研究科を修了後、京都大学大学院農学研究科を経て、2012年より福島大学にて研究や教育に従事している。少しかわったいきものの研究の他、絵本を使ったユニークな授業などにも取り組んでいる。座右の書は『MASTER キートン』。
X:@skane_Fukushima
【写真協力】
高木俊人(たかぎ・としひと)
神戸女学院大学 生命環境学部 専任講師。ニホンジカをはじめとした野生生物の進化史や集団構造の変遷を明らかにするための研究を行っている。
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