多くの鳥は歴史の中でイメージがつくられ、そのイメージが現代まで受け継がれています。ただし、フクロウやミミズクは少しちがっていて、江戸時代に限定したイメージもありました。
夜を代表する鳥
フクロウといえば、夜に鳴く鳥の代表格。声によって、「夜という時間」を示す鳥です。鵺(ぬえ)の名をもつトラツグミも夜の鳥で、ともに声に不気味なイメージがあります。
ただしフクロウは、その声が「なんとなく不気味」といった感じで、暗くてあたりがよく見えないという「夜の怖さ」を連想させるだけで、実質的な恐怖は与えません。

フクロウやミミズクは一般的な鳥とは異なり、丸みを帯びた体と頭部をもちます。昼間は樹の上で眠っていることも多く、古くから多くの日本人がその姿を見知っていたことから、フクロウ自体に恐怖を感じることはほとんどなかったようです。
広い意味で猛禽の枠に入る鳥ですが、夜行性である彼らの狩りを見ることはほぼなく、そういった点からの「怖い」イメージは醸成されませんでした。
巨大な古墳で有名な、仁徳天皇(第16代)が誕生した際に産屋にミミズクが飛び込み、同日、家臣の武内宿禰(すくね)の家の産屋にミソサザイ(鷦鷯)が飛び込んだことを吉兆として、鳥の名前を交換するかたちで子の名づけが行われたエピソードも有名です。
『日本書紀』ではここから、仁徳天皇を大鷦鷯(おおさざき)天皇と記しています。
文字のかたちで残る日本の歴史の始まりである4~5世紀には、フクロウやミミズクに対して不吉なイメージがなかったことが、こうしたエピソードからわかります。

繋がらないイメージ
その後、フクロウ類に対して、なんとなく不気味、という印象が人々の心につきまとうようになりますが、負のイメージが深く浸透したのは江戸時代になってからです。
明の時代にあたる1596年、百科を網羅した本草書『本草綱目』が中国で刊行されます。著者は李時珍。26年という時間をかけて書かれた大著でした。『本草綱目』は刊行早々、日本にも輸入されていて、徳川家康の座右の書であったことも知られています。
『本草綱目』のフクロウの解説には、「長じると自分の母を食べる不孝の鳥である。」という一文がありました。これは中国の古代の伝説にもとづくもので、根拠はありません。もちろんフクロウは、そんな生態などもっていません。
しかし、中国の最先端の百科事典的な書籍にそうした記述があったということで、悪い印象が17世紀以降、日本の文化人の中に浸透。自著でそれを事実として紹介した人物も現われます。
『南総里見八犬伝』の著者である滝沢馬琴も、『燕石雑志』という書籍において、「梟は不孝の鳥なり。雛にして母をくらわんとするの気あり」と記しています。これもまた、『本草綱目』を検証なしで妄信した結果とされます。
室町時代の1400年代後半の作と考えられている『鴉鷺合戦物語』には、フクロウについて、「また年たけぬれば通力出てきて、人をたぶらかすこと天魔のごとし」という一文がありました。ここから、フクロウに対する負のイメージは、江戸時代以前から存在していたことがわかります。
ただし、この点については、フクロウが鳴いている真っ暗な夜道で迷った人物が、鳥に責任を転嫁した可能性も否定できません。
このように漠然とあった負のイメージを定着させたのが江戸時代であったと考えてよさそうです。
近現代のイメージ
今、私たちがフクロウにもつ印象として、「智恵」「知性」の鳥というものがあります。
これはギリシア神話の女神アテナ(=ローマ神話の女神ミネルヴァ)に由来するイメージで、こうしたイメージを借りるかたちで自社のトレードマークとしてフクロウを採用している出版社も複数あります。
アテナは軍神のイメージも強いのですが、古くはアテナイ土着の農業の神であり、智恵と学芸の神でもありました。
そうしたイメージが伝わってきたのは明治になってからで、江戸時代の日本にはフクロウに対して智恵の象徴のようなイメージはまだありませんでした。
アイヌの人々もフクロウのことを、霊鳥や神そのものといった目で見ていましたが、そのイメージがあらためて日本に浸透したのも近現代になってからです。
羽角があるのがミミズク
フクロウとミミズク。
すべておなじフクロウ目の鳥です。両者に実質的なちがいはありません。
頭部に哺乳類の耳のように上に突き出した羽毛(=羽角:うかく)があるのがミミズク、丸い頭をしているのがフクロウということになっていますが、羽角のないミミズクもいます。
北海道のシマフクロウなどは、フクロウと名前がついているのに羽角があります。
頭の丸いミミズクの代表がアオバズク(青葉木蒄)。アオバズクは渡り鳥(夏鳥)で、新緑の頃に日本に渡ってきて繁殖することから、その名がつきました。ホッホ、ホッホと鳴きます。
古代、フクロウにはいくつもの名称があり、表記がありました。
そのなかにツクやズク(木菟)という名があり、耳のついたズクだからミミズクと呼ばれるようになったというのが定説です。
江戸時代には疫病除けの玩具にも
江戸時代に負のイメージが広まったフクロウですが、一方で、魔除け、災厄除けなど、真逆の存在として扱われることもありました。
その最たるものが、疱瘡除けの玩具や絵です。
疱瘡とは、天然痘のこと。疱瘡が日本に入ってきたのは6世紀で、世界の根絶宣言は20世紀末でした。予防接種としての種痘(天然痘ワクチンの接種)が伝わる以前は致死率の高い病気でした。
疱瘡は、江戸時代になってもときおり流行し、将軍が感染することもありました。
そんな疱瘡に対して行われたのは、「疱瘡」除けの、まじない玩具や絵を手許に置くこと。赤い張子のみみづく(木菟)や達磨が、特に子どもに向けて、疱瘡除けの呪具として市中に広まっていました。
歌川国芳が魔除けとして描いたみみづくの絵も複数残っています。

フクロウ・ミミズクの利用
多くの江戸市民にとってフクロウやミミズクは、昼間は眠そうにしている鳥という認識でした。一方で野山では、小さな小鳥たちが昼間のフクロウやミミズクに対して集団になって上空から攻撃するような挙動(=モビング)を見ます。
その姿からヒントを得て行われるようになったのが、フクロウやミミズクを囮にした鳥の捕獲方法です。
野や林の空き地に紐でつないだフクロウやミミズクを置くと、小鳥が集まってきます。それを網で捕まえるのです。ずく(木蒄)を使った鳥捕獲は、「木蒄引き(ずくひき)」と呼ばれました。
現在は行われていませんが、明治になってもこの方法で鳥が捕獲されていたことは、当時の新聞などからも明らかです。
【執筆者】
細川博昭(ほそかわ・ひろあき)
作家。サイエンス・ライター。鳥を中心に、歴史と科学の両面から人間と動物の関係をルポルタージュする。おもな著作に、『インコ・オウムの心を知る本』(緑書房)、『大江戸飼い鳥草紙』(吉川弘文館)、『鳥を識る』『人と鳥、交わりの文化誌』『鳥を読む』『人も鳥も好きと嫌いでできている』(春秋社)、『江戸の鳥類図譜』『江戸の植物図譜』(秀和システム)、『知っているようで知らない鳥の話』『江戸時代に描かれた鳥たち』(SBクリエイティブ)、『身近な鳥のすごい辞典』(イースト新書Q)、などがある。

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